桜川のあゆみ 『常陸国風土記』とダイダラボウ

朝房山麓の桜川水源付近
朝房山麓の桜川水源付近

今年は風土記撰修の詔が発せられてから1300年という節目の年です。常陸国風土記にも桜川の記載があるのです。

 

いわゆる律令国家ができあがる奈良時代の初期、元明天皇は諸国を掌握するために、和銅6(713)年に、各国ごとに文化・風土・地勢などを記した「風土記」の編纂を命じる詔を発した。常陸国も編纂し朝廷にこれを献上。『常陸国風土記』は現存する五つの風土記の一つとして知られている。ここにも桜川に関係する以下のような伝承がみられる。

  茨城の里。此より以北に高き丘あり。名を晡時臥の山と曰ふ。古老の曰へらく、

  兄妹二人有りき。兄の名は努賀眦古、妹の名は努賀眦咩といふ。*・・・

 前述のように、常陸国那賀郡の桜川上流部には茨城郷(旧内原町一帯)があり、その北に晡時臥(くれふし)の山があると説明している。その近くにヌカビコとにヌカビメの兄妹がいたというのが物語のはじまり。以下現代語にて概略を説明しよう。

 この妹(ヌカビメ)のもとに毎夜通ってくる者がいて、妹はそのうち懐妊し、月満ちて一匹の蛇を産んだ。昼は口を利かず夜になると話すこの蛇の様子を見て、この蛇を神の子と信じた(神は夜語るものとされていたので)兄妹は、蛇を清らかな杯の中にいれて祭壇に祀って安置したが、成長が速く、杯を大きいものに変えても変えても足らず、もてあました妹(母)は、蛇に向かって天の父のもとに帰るように告げると、蛇は「従者をつけてくれ」とせがんだが、兄妹二人しかいないので無理だと断ると、伯父である兄を殺してそのまま天に昇ろうとしたので、驚いた妹(母)が蛇に瓫(素焼きの器)を投げ付けると蛇は昇天できず、そのまま晡時臥の山に留まった。その蛇の子をいれた瓫や甕が片岡の村にのこっていて、蛇神のための社が祀られた…というのがこの伝承の概略である。ここでいう「晡時臥の山」とは現在の朝房山つまり桜川の源流地である。晡時とは申の刻つまり夕暮れ時を意味している。

 『水戸概史』では、ここでいう片岡の村とは、水戸市木葉下(あぼっけ)町・谷津町付近を指しているのではないかとしている。事実、木葉下町一帯には、『風土記』が成立した8世紀から9世紀にかけての瓫や甕などを生産した窯業地跡の遺跡が多くみられる。木葉下町も桜川の源流部である。

 この伝承は学術的には、大和朝廷の領域拡大と蛇神・雷神の三輪信仰や雷神である鹿島信仰の拡大との関係で論じられるが、蛇神は、古来水の神であり、桜川水源地の朝房山に蛇神信仰と深く結び付く伝承がうまれるのは、当然のことといえよう。

 さて、同じ『常陸国風土記』の那賀郡の条の冒頭には、ダイダラボウと大串貝塚のことが登場する。この物語は、民話としても伝承されているが、ダイダラボウの民話は、桜川の発祥についても話が及んでいて興味深い。いささか長い引用になるが紹介しよう。

  むかし、むかし、ダイダラ坊という巨人がいたんだと。それはそれは、大きなか

  らだだったんだそうだ。だから、だれかが、「ダイダラ坊さんよ。」と、声をか

  けても、なかなか声がとどかねえほどだったんだと。ダイダラ坊は、あんまり体

  が大きかったんで、「みんなにめいわくになんめえか。」と、いつも気をつかっ

  ていたと。しかし、たいへん気がやさしかったんで、みんなからとても好かれて

  いたんだとよ。

  ダイダラ坊が住んでいたのは、内原の大足というところで、ここの人たちは、み

  んなお百姓で、田や畑を耕してくらしていたんだと。ところが、村の南に高い山

  があって、朝と夕方にしか日があたんねえもんで、作物はよその村の半分ぐらい

  しかとれなかったんだと。そんなだから村はとても貧ぼうだったんだそうだ。

  「洗たく物がかわかねえ。」「冬、寒くてしかたねえ。」といって、ぐちをこぼ

  す人も多かったんだと。

   ダイダラ坊は、「そうだ、みんなの役にたつのはこういうときだ。おれは力があ

  るんだから、この山をどこかへ移してみんなの苦しみを救ってやっぺ。」って、

  その山を動かし始めたっちゅうことだ。

 「ヨイショ、ヨイショ。」と、ダイダラ坊はあせだくになって山を動かして、と

 うとう北の方へ移してしまったと。村人たちは、「たまげたすげえ力だ。」とい

 って、目を丸くしておどろいたと。それからのち、山が北へ移ったので日あたり

 がよくなって、作物もよくとれるようになったそうだ。人びとは、「ダイダラ坊

 にお礼をいわなくちゃなんねえ。」といって、みんなが喜んだので、ダイダラ坊

 もとてもうれしかったと。この山が朝房山なんだとよ。

 ところが山を動かすとき、ダイダラ坊が指で土をほったんで、そのあとさ水たま

 りができちまって、雨が少し多くふるたんびに、その水があふれて洪水さわぎに

 なったと。「こりゃ、どうしたもんだっぺ。」と考えたダイダラ坊は、その水が

 流れるように川をつくって、その下のほうさ湖を一つつくったんだと、それが今

 の千波湖なんだそうだ。            『茨城の昔ばなし』より 

この民話には、ほかにもいろいろなパターンがある。水たまりの水がながれるように、大地を指で割くように一本の筋をつけて水を通したので、「割く川」が「さくらがわ」になったという話や、山を動かしたことで日の当たる時間が長くなり、村人たちがゆっくり朝起きられるようになったので、「朝寝坊山」から「朝房山」になった、というものである。また別の話ではくれふし(夕暮れ)の山なので、だれも朝が来たと思わないのでみな朝寝坊してしまうため「朝寝坊山」だというものもある。

ダイダラ坊の物語は『常陸国風土記』の大串貝塚の伝承で、巨人が海から貝をすくって食べた殻が堆積したものとして登場する。それが民話では朝房山・桜川創造の物語にまで展開していくのは実に興味深いが、「晡時臥の山」が「朝寝坊の山」に転化している点や、大足(おおだら)という地名が上流部に存在していることも、ダイダラ坊の物語をより説得力を持って聞かせる一つの素材となっている。民話を裏付けるように、大足町付近には遺跡も点在することから古代の人々が未開の山野を開発して田畑を切り拓いていく姿とこの物語は付合するといってよいだろう。また、後述するが、桜川の命名は江戸時代、水戸黄門徳川光圀によってなされた。このことから、この民話の成立は江戸時代以降と想像される。

なお、源流地の朝房山および木葉下(あぼっけ)*は小松左京の傑作SF小説『日本沈没』のエピローグに登場したことでかつて注目を集めたことがある。なぜ、朝房山が選ばれたのかは不明だ。

 

*努賀眦古、努賀眦咩の「眦」の字は正確には田へんに此を合わせた字。

*木葉下をあぼっけと読むのはアイヌ語由来であるという説がある。

 

【参考文献】

秋本吉徳全註訳『常陸国風土記』(2001、講談社学術文庫)

茨城民俗学会編『読み語り茨城の昔ばなし』(2004、日本標準)

茨城いすず株式会社HP「茨城の昔ばなし」

 http://www.ibaraki-isuzu.co.jp/mukashibanashi/2005-07/index.html

編集委員会編『角川日本地名大辞典』8巻茨城県編(1883、角川書店)

小松左京『日本沈没』(1973、光文社)

 

 

 

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