ヤマザクラ・シキザクラ・シダレザクラお譲りします

当会苗圃の整理縮小に伴い、苗圃のヤマザクラ・シキザクラ(いわゆる冬桜系)・シダレザクラの苗を無償でお譲りします。

掘り上げ・運搬の費用については自己負担となります。令和6年3月までに当会へご連絡ください。お問い合わせフォームからどうぞ。

左近の桜寄付金募集は終了いたしました。皆様のご理解ご協力に感謝いたします。

偕楽園左近の桜再生を支持します。

2019年9月、水戸偕楽園の左近の桜は台風により倒木となりました。

水戸の左近の桜はもともと天保2年に京都の有栖川宮家から水戸の徳川斉昭公に嫁いだ、登美宮吉子女王が、仁孝天皇から御所の左近の桜の株分けを拝領したことを起源とします。

その後、小石川の水戸藩邸に植樹されたのち、弘道館の開館に伴って水戸に移植され、弘道館では2度の枯死を経て現在3代目の左近の桜が花を咲かせています。偕楽園へは昭和38年の弘道館への3代目の植樹の際に宮内庁から頂いた数鉢の1つを植樹したものです。

台風からの再生にあたって、偕楽園の当初の造園思想になかったものなので再植樹反対、あるいは偕楽園の歴史的景観の最重要点である好文亭楽寿楼からの景観を阻害するもの、というご意見が『茨城新聞』等の紙上に掲載され、公の場でもそのようなご意見があったことを聞いております。そうした議論の根拠は「常磐公園攬勝図誌」「偕楽園記」といった少ない資料の中から得られた情報を以て論じられているものと拝察します。

しかし他の資料を調べてみると、全く違った作庭者たる烈公徳川斉昭と左近の桜をもたらした吉子夫人の思いを知ることになるのです。

 

以下、令和3年12月12『茨城新聞』に寄稿した文章の元原稿です。

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偕楽園左近の桜の再植樹に関するいくつかの寄稿を拝読した。左近の桜再植樹への否定的な意見には、違和感を覚えるため、再植樹賛成の立場から愚見を述べたい。

まず、好文亭楽寿楼からの眺望を左近の桜が阻害していたというが、開園数年後に描かれた「好文亭四季模様之図」や古写真・絵葉書に残る好文亭からの景観は、すでに千波湖方面が松の巨樹によって千波湖側の大きく眺望が遮られていたのである。

さらに、左近の桜には再植樹すべき理由がある。根拠は「吉田令世日記」等に収録された「桜橘樹碑文」に遺されている。斉昭公の正室吉子夫人が、京の有栖川宮家から嫁ぐに際し、御所の左近の桜の苗を仁孝天皇から拝領したことから説き起こし、その歴史的経緯に触れた碑文で、国学者吉田活堂が推敲したものである。核心は碑文の後半部にある。御所の左近の桜は「内のちかきまもりとつこうまつり給ふ中将の君」(当時斉昭公の官職が左近衛中将)の「いそしき御心」(勤王の心)が朝廷にも伝わっていたので、吉子夫人に下げ渡されたのであり、「瀧守がまもりせんも思ひいてられて」(瀧守という人が左近の桜を守った故事も思い出される)と記されている。

はじめて御所に左近の桜が植樹されてから数十年後、清和天皇の貞観16(874)年、左近の桜は台風により倒木した。勅命を受けてこの再生にあたったのが、征夷副将軍坂上鷹養(田村麻呂の弟)の嫡孫、左近衛少将・坂上瀧守であった。これを契機に左近の桜は左近衛府の官職にある者の手で植え継がれてきた。徳川の祖たる「清和天皇」の御代に「副将軍」の家柄で「左近」の官職にある人が左近の桜を再生させたという故事は、背景が一致し尊王の思いが強い斉昭公を感激させた。それゆえにわざわざ碑文を刻ませたのである。

偕楽園には昭和38年の弘道館の左近の桜再植樹の際に同時に植樹されたが、この度の「台風」により倒木となり、宮内庁から御所の左近の桜の苗を譲り受けた。烈公が台風の倒木から左近の桜を復活させた瀧守の故事を知り石碑を刻ませたことを思えば、再植樹は烈公の思いに叶うことであり、水戸の教えの深奥に他ならない。

さらに言えば、好文亭は皇族出身の吉子夫人が、数年住んだ場所であり、大正・昭和両天皇をはじめ皇室に縁の深い場所である。偕楽園開園より以前の時代、光圀公が、南朝のあった吉野から苗を取り寄せ植樹した記録もある。光圀公の教えのひとつに「興廃継絶」(廃れるを興し、絶えたるを継ぐ)という言葉がある。大日本史編纂の動機として語られた言葉だが、左近の桜の再生も台風によって絶えた名樹を植え継いでいく営みそのものである。

正直に申し上げて偕楽園の歴史的景観を著しく毀損するような最近の動向には賛成できかねる点が少なくない。しかし、こと左近の桜再生に関しては植え継がねばならない歴史的背景が厳然として存在するのである。

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上記の寄稿文中に使用した「櫻橘樹碑文」と現代語大意を以下に示します。

〈原文〉

天疎(さか)るひなにありても大王を思ふとは、いそ(勤)しき人の心ならずやは、

わが宰相中将の君は江戸のおほきおとど(大臣)のうから(血族)として、天皇のとほの朝廷をつねさらず、大政を輔け物して、とほつ祖(おや)の御ときより今におこたり給はず、ころも手の常陸にしては、ものたるみ垣代(かいしろ)になむありける、

吉子此殿にとつ (嫁)かむとて新玉の年のなをの久堅(ひさかた)のあめやすし(天保)といとひて二とせの春、まかりまをしに九重(ここのえ)の雲上(うんじょう)にもう登りけるとき、すがねのねごろもにかたじけなき仰せごとありて、

鶏鳴(とりがなく)吾妻のつとにせよと、物さはに御手よりしも給はせける中に、南殿(なでん)の近きまもりなる桜と橘の実ばえといふものぞありける。

またはこやの山とたゝへ奉る御あたりよりはたきものつゝめる紙に花のひもといふ名かゝせたまひ、其家の栄を楽(ねが)ふとおほせごと有て、

それ給はせけるも、かれこれにつけてうれしきさきはひなるは、

青くもの向伏(むかふす)きはみ遠きさかひに在ても、たまきはるうちの近きまもり(衛)と、つかうまつり給ふ中将の君の、いそ(勤)しき御こゝろのとゞきたるにこそはあれ、

たづさへ下りて、うゑおふしたつるに、たきもりがまもりけむも思ひでられて

かくここにしるしてわが家のよろこびを忘れず、

橘の実副(さへ)桜の花さへいや常磐にといふになむ 

 

出典:国立国会図書館蔵「吉田令世日記」第四巻 天保二年六月十一日・十二日の条。『女人歌学大系』第三巻にも徳川吉子「あつまのつと」として所収

 

〈大意〉

都から遠く離れたところにあっても勤皇の心を持つ人がいることは何と素晴らしいことか。我が夫宰相中将の君(斉昭公)は、江戸の大臣(将軍家)の一族であるが、朝廷のことを大切にする心を持つ人で、水戸家は先祖の頃(光圀公以来の家の教え)より、いままで勤皇をおこたらなかった。・・・

私(吉子女王)ははるばる嫁ぐことが決まり天保二年の春に御所に参内してご挨拶を申し上げたが、天皇様(仁孝天皇)より懇ろなお言葉を賜り、東へ下り土産として持参しなさいということで、御所紫宸殿の前庭にある左近の桜・右近の橘の実生の苗を、天皇お手ずから渡して下さった。そのあと仙洞御所にもご挨拶にうかがったところ上皇(光格上皇)様からも「花のひも」*と包み紙に直筆されたお香を頂いた。・・・

それにしても遥か都まで、自分の夫となる左近衛中将の君(斉昭公)の勤皇の心が届いていることに感激する。

私が都から携え来て江戸で植えたということは、坂上瀧守が、その勤皇のこころで左近の桜を守り復活させた故事も思い出す。ここに石碑に記して我が水戸家の喜びをわすれず、橘の実、桜の花が永遠に実り咲くように祈る。

*花のひもとは花のつぼみという意味で天皇の父である上皇が、天皇が左近の桜の苗を下賜することを聞き、水戸家に言って花を咲かせよという意味でおくったものであろう。

・・・

この文中の瀧守と斉昭公がどう比較されるのかについては添付写真をご覧いただけるとより理解していただきやすくなるかと存じます。

ともあれ、こうした資料を味読することにより、桜の再生はやり遂げなければいけないものとの思いを強くするところです。歴史的景観を論じ、水戸の教えを論じるならば、こうした点に至るまで考えを及ぼすべきかと考えます。

同時に左近の桜の再生は多くの市民の声です。それを無視することはできないはずです。

斉昭公は、自らの没後に好文亭に神位(位牌)をひそかに収めよと遺言しました。その神位の裏面には次のような和歌が刻まれました。

それをみれば斉昭公の真意はおのずと理解できるはずです。

「国民と 偕に楽しむ 心かな 今を昔に 忍ぶ世までも」

「盛りなる 桜は散るとも かぐわしき にほひを世々に 留めさらめや」

 

 

 

 

 

石碑建立除幕式を挙行。ご支援ありがとうございました。

平成30年5月12日(土)大安。

晴天の中、見川4丁目第1児童遊園内で「桜川碑」の建立除幕式が執り行われました。

水戸市長代理秋葉宗志副市長様、水戸市議会副議長木本信太郎様をはじめとする御来賓の方々、そしてご支援をいただいた会員・一般の方々を含めた約70名の皆様にご臨席を賜り、式を挙行いたしました。

櫻川の御本家である桜川磯部稲村神社の磯部宮司様と当会代表稲葉により除幕が行われ、御来賓のご挨拶と記念撮影で滞りなく式は御開きとなりました。

私どもの宿願でもあるこの歴史を未来に残す建碑が達成されましたことは、光圀公以来の水戸の教えである「彰往考来」の実践でもあります。そして今般この石碑が皆様の御寄附によって成し遂げられましたことは、江戸時代後期に隅田川で庶民が募金をして桜堤を植樹した「桜勧進」の再現にほかなりません。皆様のご厚志は100年・200年とこの石碑とともに刻まれて参ります。ご支援ご協力に改めて深く感謝を申し上げます。ありがとうございました。

クラウドファンディング募金終了、目標達成御礼

クラウドファンディング「Ready for」を通じての48日間の募金活動は4月16日22時をもって終了しました。おかげさまで第1目標を突破し、第2目標まで達成して終了することができました。クラウドファンディングと一般募金と併せて約120名の皆様にご支援をいただきました。この場を借りて御礼を申し上げます。個々の皆様には返礼品送付と併せて御礼状を差し上げる予定です。熱いご支援ありがとうございました。

桜川碑建碑と植樹ご協力のお願い

趣意書に続いて募金詳細と碑文原案がございます。ご一読ください。下の図はクリックすると拡大します。

                建立趣意書

 

水戸市内の中央部を貫流し偕楽園・千波湖・駅南をいろどる桜川は、茨城・水戸が誇る優れた景観の一つです。しかし多くの方は本当の桜川の歴史をご存知ありません。

・・・

中世まで箕川(見川町の名の由来)と呼ばれていた桜川。江戸前期の元禄9(1696)年、2代藩主徳川光圀公が、現在の河和田町・見川町にかけての箕川に、「西の吉野・東の桜川」と並び称せられた茨城郡磯部村(現桜川市)の桜川の地からヤマザクラ数百本を移植し、この場所を「佐久良川」と命名して景観地としました。以来、水戸の人々は、花の時期になるとこの地を訪れ、川の名も「桜川」と呼ばれるようになりました。

近代になると、光圀公ゆかりの桜川の故事は忘れ去られ、ヤマザクラも枯れ果てました。大正4(1915)年、河和田村青年会が景観の復元を目指しましたが、それも今ではごく一部に桜がみられるのみになってしまいました。

私たちは2011年以来、この光圀公ゆかりの本当の桜川の地(見川町・河和田町一帯)への桜景観の復元を目指して活動を続けてきましたが、宅地化の波に抗することはできず、次第に植樹する余地は失われてきています。

・・・

そうした中で、旧見川村小字桜川の地、つまり光圀公は桜を植樹した核心地とも言える現在の見川4丁目地域の桜川沿いに大規模な宅地開発が行われることになり、保存復元を目指していた私たちは驚きました。ところが開発を手掛ける積水ハウス株式会社の担当者の皆様が私どもの取り組みに注目され、協議を重ねた結果、「桜川」の歴史的意義を踏まえ「百本桜のまちづくり」を開発の根本理念として下さいました。各戸に低木の桜を植樹し、2か所の公園には、私どもが、桜川磯部稲村神社様(光圀公の故事にならい)ゆかりの種そして現地に残っていた木の種から育てたヤマザクラとシダレザクラを植樹させていただくこととなりました。桜の専門家に伺ったところ、恐らくこうした歴史に立脚した桜のまちづくりは全国的に見ても前例はないとのことですので、水戸らしい天下の魁となるような事業といえましょう。

・・・

私どもはこの機に植樹とともに、公園への石碑の建立を計画しております。公園は完成後、水戸市の管理下の公園となり、広く地域の人々に愛される場所となります。

光圀公ゆかりの桜川の歴史を石碑に刻むことは、歴史を未来にひきつぐ光圀公の「彰往考来」の精神にもつながります。そして新住民・地域住民・水戸市民の皆様に桜川の持つ歴史的価値への理解を深めることにつながると信じております。

・・・

つきましては、趣旨をご理解いただき、ご協賛を仰ぎたく、ここにお願いする次第です。

 

           平成29年11月吉日

           

              水戸桜川千本桜プロジェクト

              公益財団法人日本花の会地方組織・水戸桜川日本花の会

                              

               募金概要

目 的   桜川の歴史を刻んだ石碑の建立(銘文下記)

場 所   水戸市見川4丁目 「コモンガーデン桜川」公園建設予定地内(地図上記)

様 態   御影石の本体(高さ150cm×幅70cm程度)およびコンクリート基礎

完 成   平成30年4月中旬予定

目 標   80万円

募 集   個人1口 3,000円~  法人1口 10,000円~

締 切   平成30年3月末日

御 礼  ・本会公式ホームページに芳名録を設置しお名前を掲載いたします。

*公園は完成後水戸市の管理下の市有地となります。立地の公共性と石碑の大きさを考え石

 碑裏面の記名はいたしませんが、芳名プレートを石碑内部に内蔵する方法も検討しており

 ます。

・寄付をいただいた方全員に完成後、ささやかな記念品を差し上げます。

・個人法人を問わず1万円以上をご寄附の方には水戸藩の桜を当会が独自にまとめた写真小冊

 子を贈呈いたします。

・法人で10口以上をご寄附いただいた場合はご希望に応じて本会公式ホームページに会社・

 団体のバナーを掲載させていただきます。

 

振込先  常陽銀行 見和支店(店番号126)  普通1479688

     ミトサクラカ゛ワセンホ゛ンサ゛クラフ゜ロシ゛ェクト イナハ゛シ゛ュロウ

      ※振込手数料は恐れ入りますが申し込まれた方の負担となります。

 

備考   お振込みを頂いた方は、後日、植樹式のお知らせと記念品をお送りするため、お

     名前・ご住所・電話番号・寄付の口数を、FAX/メール/電話にてお知らせいただけ

     れば幸いです。本会会員の方はご連絡は不要です。

連絡先  水戸桜川千本桜プロジェクト事務局

     水戸市見川町2131-175

     TEL/FAX 029-241-634* 

              *を9に置き換えてください。

     e-mail  mitosakuragawasenbonzakur△@gmail.com 

              △をaに置き換えてください。

 

               

                石碑原文     ※実際は縦書きです。

朝房山を源流とする桜川は、水戸の中央を貫流し、流域には、古くから人々が住みつき、日蓮や、親鸞の弟子唯円ゆかりの場所もあり、豊かな暮らしと文化が育まれてきた。 

江戸時代の元禄九年、二代水戸藩主徳川光圀公が、桜の名所、茨城郡磯部村(現桜川市)の桜川から、ヤマザクラ数百本を取り寄せ、見川村と河和田村の一帯に植樹し、佐久良川(さくらがわ)と名付けた。その後、箕川とよばれていたこの川は「桜川」の名で呼ばれるようになった。

この地は、江戸時代の中頃までは水戸随一の桜の名所であり、多くの人々が花見に訪れにぎわった。歴代の藩侯も桜を植え継ぎ景観を守ってきた。特に九代藩主徳川斉昭公は、桜川南面の見川村丹下原から「大戸の桜」の大戸原までを「櫻野牧」と名付け、その土塁上にヤマザクラを多数植樹して、桜川景観を継承した。

明治になると、桜の名所は桜山に代わり、桜川は次第に忘れ去られ、老木がわずかに残るばかりとなったが、大正に入り、桜博士・三好学が残ったヤマザクラの調査に入り品種を解明し、さらに大正四年には、河和田村青年会が、光圀公の故事を知り、対岸の旧河和田村桜川の地にヤマザクラの植樹をおこなった。 

いま新たなまちづくりが行われるにあたり、桜川の歴史の記憶と景観が、市民の手によって未来に引き継がれることを願い、ここ旧見川村桜川の地にゆかりのヤマザクラを植樹し、石碑にその由来を刻むものである。         

 

平成三十年二月吉日

                題字 ○ ○ ○ ○(題字は依頼中です)

                撰文 水戸桜川日本花の会・水戸桜川千本桜プロジェクト

 

はじめに~プロジェクト設立にあたって~

 水戸桜川千本桜プロジェクトは、2012年10月に生まれました。

桜川は、水戸のほぼ中心部を西から東に向かって流れる川です。関東を代表する清流の那珂川、水戸の中心に位置し偕楽園と一体の景色を形成する千波湖などとともに、「水都」水戸の景観を形成する重要な川です。水戸駅の通称駅南から偕楽園直下の千波湖をとり囲む一帯は、「ふるさとの川整備事業」や「清流ルネサンス事業」などに指定されながら、治水・景観形成を考えた整備がなされて、現在では多くの市民が誇りとする場所になっています。

しかし、桜川がなぜ桜川と呼ばれるのかを知っている人は決して多くありません。その由来は、水戸人・茨城人が誇りとする“水戸黄門”徳川光圀公にあります。光圀公は元禄9年に、現在の見川町から河和田町の一帯に、桜の名所真壁郡の桜川の地から、ヤマザクラ数百本を移植し、川の名前を「佐久良川」と改めたのです。これが「桜川」の起源です。

ところが歳月を経て現在、光圀公が植樹した場所に由来の山桜は全くありません。それどころか、偕楽園直下までの美しく整備された姿とは違い、人が容易に立ち入ることもできない放置された空間になっています。

私たちは、この光圀公ゆかりの場所にヤマザクラを中心とした樹木を植樹し、歴史に基づいた景観形成に協力していきたい、そして面積世界第2位といわれる偕楽園公園のエリアの未整備地や上流部にも植樹を行って、水戸を梅同様、桜でも名をとどろかす日本一・世界一のガーデンシティにしたい!そんな願いのもとにこのプロジェクトをはじめました。

もう水戸には桜の景色があるじゃないか、というお声も聞きます。駅南、千波湖、桜山には合わせて1400本もの桜が植えられて美しい景観を作っていますし、市内には多くの桜の名所が生まれています。しかし、私たちは大日本史を編纂した「歴史のまち」の住人として、光圀公の故事に立ち返り、近代以降に植えられたクローンのソメイヨシノではなく、一本一本の個性が異なり、長い間日本人が好んできたヤマザクラなどを中心に植樹をしたいと思っています。豪華絢爛なソメイではなく、古来から日本人の心をとらえて離さなかったヤマザクラこそ、桜川にふさわしく歴史的正統性のある桜であると思っています。

 これから、植樹に向けての諸活動を展開していきますが、日本初の「公園」といわれる偕楽園の思想をふまえて市民の皆さんの知恵とお力を結集して、植樹して終わりではなく、木とともに成長する、木の成長を見届ける、木の下に集う、そんなpublic parkを作ってまいりたいと思います。もちろん水戸在住の方だけなどという狭い了見ではありません。光圀公も大日本史編纂においては日本中から優れた学者を集めました。お住まいの地域にこだわりなくプロジェクトにご参加いただけるように致します。水戸の教えに「集衆思宣群力(衆思をあつめて群力を宣ぶ)」という言葉があります。皆さまの想いとお力をお貸しください。そして同じく水戸の教え「彰往考来」「継往開来」にあるように歴史を明らかにし未来を考え、歴史を未来につなぐ、50年後・100年後の桜景色を、一緒につくってまいりましょう。

これまでの経緯詳細を記したfacebook水戸桜川千本桜プロジェクトのページも合わせてご覧いただければ幸いです。

なお、本プロジェクトは平成26年6月1日より、会員の方々のご承認により、公益財団法人日本花の会の地方組織として加盟し「水戸桜川日本花の会」の名称を併せて持つことになりました。活動や目的はこれまでと変わりませんが、植樹や管理の技術などで適宜日本花の会より御指導いただく予定です。

3月10日「桜と講談の会」はイベントをクリック

4月4日「全国さくらシンポジウム」情報はイベントをクリック

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