「水戸と桜・桜川」のクロニクル(年代記)
桜川そして桜と水戸には歴史のあゆみがあります。桜川の歴史と水戸と桜の歴史をクロニクルにしてみました。詳しい由来や経緯・現況はブログに記載してまいります。
[先史・古代・中世の桜川]
・旧石器時代:赤塚遺跡(水戸最古の遺跡・ナイフ形石器など)
・縄文時代草創期:赤塚西団地遺跡(槍先型石器)
・縄文時代中期:高天原遺跡(住居跡)
・弥生時代後期:松原遺跡・向井原遺跡・大塚新地遺跡など
・古墳時代中期:赤塚遺跡(集落跡)向井原遺跡(方形周溝墓)
・律令制下
和銅6(713) 『常陸国風土記』編纂。「那賀郡」の条に「晡時臥(くれふし)
の山」の伝承。くれふし山=桜川の源流である朝房山のこと。
*民話では、ダイダラボウが桜川を造った伝説
・平安時代
10世紀前半 那賀郡から吉田郡(吉田神社の神郡)が分離
12世紀 常陸平氏の大掾氏の吉田郡支配
・鎌倉時代
建保2(1214) 常陸平氏の馬場資幹が水戸一帯を支配
鎌倉中期 馬場資幹の四男が箕川一帯の所領を譲られ、箕河四郎長幹を名乗る
*このころより桜川は箕川(見川と併用)として表記される。
鎌倉末期 吉田神社神職の大舎人(おおとねり)友恒の子孫が箕川に居住
・室町時代
元中5(1388) 江戸通景が箕川中流上流域一帯を支配、河和田を拠点とする。
応永35(1428) 江戸氏の水戸城進出で、江戸氏配下の春秋幹光が箕川城に入る
*春秋氏は河和田・見川を支配し、上流は加倉井氏・外岡氏が支配。
[近世の桜川と水戸藩の桜]
・安土桃山時代
天正18(1590) 佐竹氏の常陸支配により、春秋氏所領没収、のちに”とうけ
ん”なるものが見川城支配となる
慶長2(1597) 佐竹国替えにより、見川城・河和田城など流域の城館が廃城
・江戸時代
慶長14(1609) 徳川頼房公水戸に転封=徳川家水戸藩成立
*水戸藩上屋敷(小石川邸)・中屋敷(駒込邸)に数多くのヤマザク
ラ・シダレザクラ・八重桜が植樹されていた。
*光圀公は小石川邸内に後楽園を完成させ、多くの桜を植樹。
寛文8(1669) 2代光圀公、朱舜水のために後楽園で観桜の宴を催す
貞享元(1684) 駒込邸に朱舜水祠堂が建ち、遺愛の桜を植樹。
元禄9(1696) 光圀公、箕川河畔に真壁郡磯部の桜川から桜数百株を移植。川
の名を「佐久良川」と改めさせる。箕川(見川)から桜川へ。
*光圀公は河和田の景勝地「膳棚」を訪問
*3代綱條公・4代宗堯公・5代宗翰公の時代は桜川は花の名所とし
て活況。
元禄11(1698) 光圀公、老女高尾の1回忌で、見川村妙雲寺境内に枝垂桜を植樹。
寛政10(1798) 水戸八幡小路に移転した朱舜水祠堂に桜数十本植樹
明和~天明ごろ(18世紀後半) 6代治保公、桜川に植え次ぎ
文化~文政ごろ(19世紀前半) 7代治紀公、桜川に植え次ぎ
文政11(1829) 9代斉昭公、駒込邸に向岡記碑を建てる。→弥生時代の由来
天保4(1833) 斉昭公、桜川と大戸の間の丹下原・大戸原に桜野牧を造成し牛馬
を放牧。土塁などにヤマザクラを植樹。
天保12(1841) 斉昭公、偕楽園と同時に桜山(別名白雲岡)を開園し、ヤマザ
クラなど数百株を植樹、中央に「一遊亭」を建設。
同年 文明夫人、降嫁時に仁孝天皇より下賜の左近の桜(実生)を弘道
館に移植。
弘化元(1844) 藤田東湖、小梅邸幽閉中「正気の歌」を作り、幕末の志士の愛
吟するところとなる。
[近現代の桜川と水戸家の桜]
明治8(1875) 明治天皇、水戸藩小梅邸に花見名目の行幸、11代昭武公が迎える
木村安兵衛によるあんパン献上
明治18(1886) 「常磐公園攬勝図誌」の刊行
大正3(1914) この頃、”桜博士”東大教授三好学が水戸桜川で桜の調査実施
大正4(1915) 河和田村青年会による桜復活計画
昭和7(1932) 桜川と千波湖の分離。下流の桜川化。
昭和16(1941) 茨城県護国神社が桜山・旧一遊亭あとに移転し鎮座
昭和30(1955) 桜川新流路(駅南部)完成。
昭和47(1972) 中小河川改修事業対象となる
昭和38(1938) 偕楽園にも左近の桜、植樹。
昭和63(1988) 建設省ふるさとの川整備事業に指定。台渡里用水から桜川へ導水開始。
平成5(1993) 全国都市緑化フェアにともなう偕楽園周辺整備(河道変更)
平成13(2001) 霞ヶ浦導水事業那珂導水路桜機場が河和田に完成
→桜川水質改善・水量回復目的
平成25(2013) 徳川ミュージアム(徳川邸)にゆかりの桜川市のヤマザクラを
植樹。
*順次補完中です。
*無断転載を禁じます。