「水戸桜川物語」は「千本桜ブログ」から桜川や水戸・水戸にゆかりの桜についてのストーリーを抜き出してまとめていきます。ブログは容量の関係で表示されている過去のものが順次読めなくなってしまいますが、こちらで一覧できるようにしました。随時ブログに追加された項目を末尾に加えてまいります。

 

第1章 桜川のあゆみ 

 

第1節 水戸桜川地誌

 

 地図で見ると、茨城県水戸市のほぼ中央部を北西から南東に貫流する桜川(さくらがわ)は、全長19㎞の国土交通省指定の一級河川で、水系でいえば那珂川水系*に属している。流域面積でみると75㎢で、栃木県下野市の面積とほぼ同じ大きさとなる。水戸市と笠間市にまたがる朝房山標高201m)の笠間市池野辺が源流とされているが、水戸市の三野輪池や森林公園近辺からの沢筋からの流れも合流して上流部を形成している。朝房山については『常陸国風土記』や民話の伝承があるが後述したい。源流地周辺にはいくつかのゴルフ場があり、谷合の田畑や集落に寄り添いながら、その流れは台地に到っている。 

 合流する河川としては、水戸市見川町で準用河川の狭間川(約2.8㎞)、同じく見川町で一級河川の沢渡川(約7㎞・新原で「堀川」と合流)水戸市中央2丁目で一級河川の逆川(約6㎞)があり、分流としては柳町2丁目から備前堀(約12㎞)*がある。また、導水としては現在、渡里用水および霞ヶ浦導水*の2ルートから導水されている。水戸市若宮町で桜川は那珂川と合流する。

 地質学的には桜川は、最後の氷河期の2万年前から1万8千年前にかけての時期におきた海退期に、河川の流れが急になったことで刻まれた谷を起源とする。これを「古桜川」と呼ぶ。6000年前にすすんだ「縄文海進」による地球温暖化による海水面の上昇で、海岸線は千波湖周辺まで進んだ。5000年前から3000年前にかけて現在の海水面に再び低下すると、それまで独立の川だった桜川は那珂川と合流して海にそそぐようになった。

 水戸市民に愛され、水戸を代表する景観ともいえる千波湖(せんばこ)は、約332,000㎡・周囲約3㎞で、かつては桜川が直接流入していたが、那珂川の土砂が堆積して河口が閉塞した「名残沼」である。江戸時代には現在の約3.8倍の広大な湖沼であった。当初那珂川には千波湖の東辺から北上する流路であったが、現在の下市にあたる場所に街が形成されるにあたり、慶長15(1610)年に備前堀が、元禄14(1701)年には現在の流路の原型である新川がつくられた。大正9(1920)年から本格化した千波湖改修事業で千波湖と桜川との分流がはかられるようになった。以来、備前堀手前まで広がっていた千波湖は干拓されて広大な水田となったが、昭和に至って市街化が意識されるようになり、戦後には本格的に市街地が形成されるようになった。

 戦後、流域人口の増加で、宅地化がすすみ、地下水への雨水の浸透が減少すると、湧水などの減少に伴い、桜川の流量は減少の一途をたどった。一方で降雨時の排水の集中により溢水・洪水の危険性は逆に高まるなど様々な課題が生じた。また、下水道の整備の遅れ等もあって水質が悪化し、現今に至っても千波湖の水質問題は課題となっている。

 そうした中で、桜川は昭和47年に建設省の中小河川整備事業の対象として、整備が開始され、昭和63年に同省ふるさとの川整備事業の対象となった。また同年には農業用水である渡里用水から桜川への導水がはじまった。平成5年には全国都市緑化フェアの水戸開催を契機に整備が加速し、下流域には広い氾濫原を確保し、偕楽園公園・千波公園の景観と一体となった全国にも誇れる河川空間が広がっている。また好文橋より上流部分には洪水対策と水質浄化を意識した広大な桜川緑地・調整池空間が広がっているが、未整備地も多いが、整備は途上にあるといってよいだろう。平成13年度には霞ヶ浦導水の桜揚水機場が水戸市河和田町の桜川横に完成し、那珂川からの導水が可能になった。

 

*那珂川…那須岳周辺を源流とする全長約150㎞の関東第3の大河であり、関東随一の清流と言われている。上流部に大きなダムがないことでも知られており、安定的な水量をたたえた川である。

*備前堀は、慶長15(1610)年に初代水戸藩主徳川頼房の命で、当時の関東郡代である伊奈備前守忠次がつくった用水。当時しばしば洪水をおこした千波湖の洪水対策と、干ばつ時の灌漑対策を兼ねてつくられた。

*霞ヶ浦導水…渇水対策・水質改善等を目的に開始された那珂川~霞ヶ浦~利根川を結ぶ巨大導水事業。工事は未完成。

 

第2節 考古・古代の桜川

 

 先述の通り桜川は、氷河期に刻まれた深い谷の「古桜川」によって現在の形が形成され、間氷期の海面上昇で千波湖よりも奥に入江がつくられることがしばしばあった。そうしたなかで、人類の足跡も桜川沿岸に刻まれていった。

 旧石器時代後期の今から約2万年前、標高30mを超える台地上にその足跡は刻まれた。国道50号バイパスの造成にともなって発掘された赤塚遺跡は、水戸では最古の遺跡とされ、ナイフ形石器が発見されている。

 続く縄文時代草創期になると、赤塚西団地遺跡から大型の槍先型尖頭器が発見されている。この尖頭器のなかには頁岩でできたものがあり、関東周辺には頁岩は無く東北で産出することから、東北との交流があったことが推定される。このころはいわゆる「縄文海進」の時期で、入江は桜川の中流付近まで深く入り込んでいたことが想像される。

 縄文時代中期には全国的に集落の数が多くなるが、赤塚西団地遺跡からほど近い高天原遺跡には縄文土器とともに集落跡が発見され、桜川中流域には早い段階から集落があったことがわかる。同じ縄文時代の遺跡といえば貝塚だが、水戸には文献に残る世界最古の例として有名な大串貝塚がありダイダラボウの伝説が残る(実はダイダラボウ伝説と桜川には深いかかわりがあるが、後述する)が、桜川流域にも千波湖近くの柳崎貝塚や吉田の吉田貝塚が発見されている。「水戸」とは淡水海水がまじる汽水域のことを示す言葉で、貝塚のある一帯が汽水域の魚貝類や陸の動植物の幸に恵まれ、集落を形成するには好適な場所であったことがわかる。

 稲作がはじまった弥生時代の遺跡としては、下流部の吉田台地上に薬王院東遺跡、大鋸町遺跡が、上流部に向井原遺跡、大塚新地遺跡がなどがあり、いずれも集落跡と弥生土器がみつかっていて水稲耕作がおこなわれていたことがうかがわれる。

 弥生時代に集落が形成された場所は、続く3世紀後半から7世紀後半の古墳時代でも集落であった場所がほとんどで、現在の開江町の向井原遺跡には35軒の住居跡と遺体埋葬場所に土で塚を作る方形周溝墓が見られるほか、赤塚遺跡には整然とならんだ十数基の方形周溝墓がみられる。こうした集落跡と古墳がみられるということは、桜川周辺に「ムラ」が出現し、それを束ねる村長的立場の存在がいたことを示している。

 6世紀、古墳時代後期になると、桜川沿岸にも前方後円墳・円墳・方墳がみられるようになった。その中でも上流部に位置する牛伏町の牛伏古墳群は、6基の前方後円墳を含めて数多くの古墳が密集し、現在ではくれふしの里古墳公園として整備され広く市民に愛されている。また、大正3年に発見された吉田古墳は、装飾古墳の貴重な事例として国の史跡に指定された。

 この後は、飛鳥・白鳳・奈良時代を含む律令制の時代をむかえるが、桜川周辺は律令で定められた行政区分にあてはめると常陸国那賀郡(ひたちのくになかぐん)*に属した。里は奈良時代に郷に改められたが、平安時代の資料には、那賀郡には二十二の郷があることが記されており、桜川の流域は、下流から南側の吉田台地・千波町一帯を「吉田郷」、現水戸市街地上市を「常石(ときわ)郷」、見川町から加倉井町・大足町のあたりまでを「隠井(かくらい)郷」、旧内原町付近の桜川流域筋を「茨城郷」、そして最上流部の有賀町・笠間市池野辺町を「安賀(ありが)郷」の5郷が流域の行政区画となっていた。奈良の東大寺正倉院にはこの頃の戸籍にまつわる資料が残っているが、そのなかに

  常陸国那賀郡吉田郷戸主君子部忍麿戸君子部真石調布一端 天平勝宝四年十月

と記した布がある。桜川沿い吉田郷に住む君子部真石なる人物が752年に、調として布一反をおさめたことが記録されているのである。天平勝宝4(722)年という年は、実は大仏が完成し、孝謙天皇と父の聖武上皇、母の光明皇太后が開眼供養を営んだ年である。税の記録だが、律令制の完成つまり中央集権化によって、桜川沿いの地とはるか平城京が結ばれていた一つの証と言えよう。

 

*大串貝塚…後述する『常陸国風土記』(721年成立)に、ダイダラボウが貝を食べた後であるという伝説が記載されており、貝塚の記録としては現在世界最古の例として知られている。現在は公園として整備され、巨大なダイダラボウ像が設置されている。

*那賀郡…現在では「那珂」と表記されているが、当時の記録には「那賀」と表記されていた。

 

第3節 「常陸国風土記」とダイダラボウ伝説

 

 いわゆる律令国家ができあがる奈良時代の初期、元明天皇は諸国を掌握するために、和銅6(713)年に、各国ごとに文化・風土・地勢などを記した「風土記」の編纂を命じる詔を発した。常陸国も編纂し朝廷にこれを献上。『常陸国風土記』は現存する五つの風土記の一つとして知られている。ここにも桜川に関係する以下のような伝承がみられる。

  茨城の里。此より以北に高き丘あり。名を晡時臥の山と曰ふ。古老の曰へらく、

  兄妹二人有りき。兄の名は努賀眦古、妹の名は努賀眦咩といふ。*・・・

 前述のように、常陸国那賀郡の桜川上流部には茨城郷(旧内原町一帯)があり、その北に晡時臥(くれふし)の山があると説明している。その近くにヌカビコとにヌカビメの兄妹がいたというのが物語のはじまり。以下現代語にて概略を説明しよう。

 この妹(ヌカビメ)のもとに毎夜通ってくる者がいて、妹はそのうち懐妊し、月満ちて一匹の蛇を産んだ。昼は口を利かず夜になると話すこの蛇の様子を見て、この蛇を神の子と信じた(神は夜語るものとされていたので)兄妹は、蛇を清らかな杯の中にいれて祭壇に祀って安置したが、成長が速く、杯を大きいものに変えても変えても足らず、もてあました妹(母)は、蛇に向かって天の父のもとに帰るように告げると、蛇は「従者をつけてくれ」とせがんだが、兄妹二人しかいないので無理だと断ると、伯父である兄を殺してそのまま天に昇ろうとしたので、驚いた妹(母)が蛇に瓫(素焼きの器)を投げ付けると蛇は昇天できず、そのまま晡時臥の山に留まった。その蛇の子をいれた瓫や甕が片岡の村にのこっていて、蛇神のための社が祀られた…というのがこの伝承の概略である。ここでいう「晡時臥の山」とは現在の朝房山つまり桜川の源流地である。晡時とは申の刻つまり夕暮れ時を意味している。

 『水戸概史』では、ここでいう片岡の村とは、水戸市木葉下(あぼっけ)町・谷津町付近を指しているのではないかとしている。事実、木葉下町一帯には、『風土記』が成立した8世紀から9世紀にかけての瓫や甕などを生産した窯業地跡の遺跡が多くみられる。木葉下町も桜川の源流部である。

 この伝承は学術的には、大和朝廷の領域拡大と蛇神・雷神の三輪信仰や雷神である鹿島信仰の拡大との関係で論じられるが、蛇神は、古来水の神であり、桜川水源地の朝房山に蛇神信仰と深く結び付く伝承がうまれるのは、当然のことといえよう。

 さて、同じ『常陸国風土記』の那賀郡の条の冒頭には、ダイダラボウと大串貝塚のことが登場する。この物語は、民話としても伝承されているが、ダイダラボウの民話は、桜川の発祥についても話が及んでいて興味深い。いささか長い引用になるが紹介しよう。

  むかし、むかし、ダイダラ坊という巨人がいたんだと。それはそれは、大きなか

  らだだったんだそうだ。だから、だれかが、「ダイダラ坊さんよ。」と、声をか

  けても、なかなか声がとどかねえほどだったんだと。ダイダラ坊は、あんまり体

  が大きかったんで、「みんなにめいわくになんめえか。」と、いつも気をつかっ

  ていたと。しかし、たいへん気がやさしかったんで、みんなからとても好かれて

  いたんだとよ。

  ダイダラ坊が住んでいたのは、内原の大足というところで、ここの人たちは、み

  んなお百姓で、田や畑を耕してくらしていたんだと。ところが、村の南に高い山

  があって、朝と夕方にしか日があたんねえもんで、作物はよその村の半分ぐらい

  しかとれなかったんだと。そんなだから村はとても貧ぼうだったんだそうだ。

  「洗たく物がかわかねえ。」「冬、寒くてしかたねえ。」といって、ぐちをこぼ

  す人も多かったんだと。

   ダイダラ坊は、「そうだ、みんなの役にたつのはこういうときだ。おれは力があ

  るんだから、この山をどこかへ移してみんなの苦しみを救ってやっぺ。」って、

  その山を動かし始めたっちゅうことだ。

 「ヨイショ、ヨイショ。」と、ダイダラ坊はあせだくになって山を動かして、と

 うとう北の方へ移してしまったと。村人たちは、「たまげたすげえ力だ。」とい

 って、目を丸くしておどろいたと。それからのち、山が北へ移ったので日あたり

 がよくなって、作物もよくとれるようになったそうだ。人びとは、「ダイダラ坊

 にお礼をいわなくちゃなんねえ。」といって、みんなが喜んだので、ダイダラ坊

 もとてもうれしかったと。この山が朝房山なんだとよ。

 ところが山を動かすとき、ダイダラ坊が指で土をほったんで、そのあとさ水たま

 りができちまって、雨が少し多くふるたんびに、その水があふれて洪水さわぎに

 なったと。「こりゃ、どうしたもんだっぺ。」と考えたダイダラ坊は、その水が

 流れるように川をつくって、その下のほうさ湖を一つつくったんだと、それが今

 の千波湖なんだそうだ。            『茨城の昔ばなし』より 

この民話には、ほかにもいろいろなパターンがある。水たまりの水がながれるように、大地を指で割くように一本の筋をつけて水を通したので、「割く川」が「さくらがわ」になったという話や、山を動かしたことで日の当たる時間が長くなり、村人たちがゆっくり朝起きられるようになったので、「朝寝坊山」から「朝房山」になった、というものである。また別の話ではくれふし(夕暮れ)の山なので、だれも朝が来たと思わないのでみな朝寝坊してしまうため「朝寝坊山」だというものもある。

ダイダラ坊の物語は『常陸国風土記』の大串貝塚の伝承で、巨人が海から貝をすくって食べた殻が堆積したものとして登場する。それが民話では朝房山・桜川創造の物語にまで展開していくのは実に興味深いが、「晡時臥の山」が「朝寝坊の山」に転化している点や、大足(おおだら)という地名が上流部に存在していることも、ダイダラ坊の物語をより説得力を持って聞かせる一つの素材となっている。民話を裏付けるように、大足町付近には遺跡も点在することから古代の人々が未開の山野を開発して田畑を切り拓いていく姿とこの物語は付合するといってよいだろう。また、後述するが、桜川の命名は江戸時代、水戸黄門徳川光圀によってなされた。このことから、この民話の成立は江戸時代以降と想像される。

なお、源流地の朝房山および木葉下(あぼっけ)*は小松左京の傑作SF小説『日本沈没』のエピローグに登場したことでかつて注目を集めたことがある。なぜ、朝房山が選ばれたのかは不明だ。

 

*努賀眦古、努賀眦咩の「眦」の字は正確には田へんに此を合わせた字。

*木葉下をあぼっけと読むのはアイヌ語由来であるという説がある。

 

第4節 吉田郡と箕川

 

 平安時代の初期、桜川の流れる那珂(那賀)郡では郡司として力をふるっていた宇治部氏の勢力が衰えるのと前後して、「吉田郡」の新設が動きをおこった。常陸第三宮である吉田神社は日本武尊の伝承を背景にした古い神社で、周辺から篤い崇敬をうけており、吉田郡は10世紀前半には成立したとされている。吉田郡はいわゆる神郡の一つであるが、神郡とは神社の所領といった意味で、常陸には古来から鹿島神宮の神郡である鹿嶋郡があり、吉田郡もこれにならったものである。

 ちょうどこの10世紀前半から半ばにかけての時期は、さまざまな秩序や体制が変質し、武士があらわれたのもこの時期。常陸国では天慶2(939)年に関東全体を揺るがした平将門の乱が発生している。日本初の軍記物語である『将門記』には、天慶3年に「吉田郡蒜間の江」*で宿敵である従兄弟の平貞盛の妻らを捕えたという記録が書かれている。これが古文書にみる「吉田郡」の初出となる。つまり10世紀前半には吉田郡は成立していたということになるのである。

 吉田郡のエリアは、南は涸沼、北は久慈川南岸、東は那珂川河口南岸、そして西は吉田郷の西端となっていて、吉田郡が分離したのちの那珂郡は平安末期までに、那珂西郡と那珂東郡に分かれた。つまり、平安時代には桜川流域は下流部は吉田郡、上流部は那珂西郡に分かれたということになる。

 平安時代、吉田神社は宮司の吉美侯(きみこ)氏と大祝(おおはふり)つまり神官職の大舎人(おおとねり)氏によって社務が執行されており、社務の実権は次第に大舎人氏が握るようになっていった。一方、郡司の職は、将門の乱の鎮圧の功により常陸大掾に任命された平貞盛の系譜をひく常陸平氏の一族が代々これを継承。吉田郡にも常陸平氏一族が入り、勢力を拡大させていた。

 八幡太郎源義家がその名をあげた後三年の役(1083~87)の頃、常陸平氏の平清幹が、吉田郡司職を掌握吉田氏を名乗るようになっていた。さらにその曾孫の代には吉田郡内に吉田氏の一族は分流していた。平安末期には、吉田郡は20ある郷のうち、8か郷が吉田神社の社領、残り12か郷が国衙領*となっており、吉田氏の分流した一族は各郷に定着した郷地頭として地盤を固めていったようである。

 平清幹の郡司就任とともに、国司の命令の下で徴税をしようとする吉田氏など武士勢力と、これまで郡を取り仕切ってきた吉田神社側の吉美侯・大舎人氏との対立が生じた。神社側は対抗するため、社領を中央貴族で太政官左大史をつとめる小槻氏寄進し、その力で所領の保護を受け徴税免除の特権をうけることになった。かくして吉田郡の半分の田地は荘園*となったのである。

 12世紀後半、源頼朝は鎌倉に武家政権を樹立するが、頼朝は全国の公領・荘園の地頭の任命権を得る。挙兵以後、頼朝に従い御家人となった吉田氏分流の馬場資幹も吉田郷の地頭職に補任されたが馬場資幹は失脚した常陸平氏の宗家・多気氏の所領を受け継ぎ、建保2(1224)年には、平貞盛以来の常陸大掾職にまで任じられる。馬場資幹は常陸平氏の分流で吉田郡の一郷の地頭に過ぎなかったが、源頼朝に目をかけられ、宗家をしのいで栄達していったのである。このあたりの事情は鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』に詳しい。

 馬場資幹は桜川を眼下に望む水戸城の原型となる館をつくり、吉田郡の一角を占めていたが、常陸大掾となると、国府のあった府中(石岡)と吉田郡内の二カ所を拠点とすることになる。資幹は国府に至るが、その子たちには吉田郡内に所領が分割して与えられた。そのうち、四男箕河四郎長幹に箕川の地を、九男川和田九郎某に川和田(河和田)の地を分与した。吉田神社の古文書の中にある建暦3(1213)年の文書中に「箕河村」という文字が残されていると『新編常陸国誌』は伝える。いずれにせよ、桜川沿いに支配者の名が確認できて、「箕川(河)」の名が明らかになるのは、この馬場資幹があらわれた鎌倉時代前期ということになる。そしてはっきりしてくるのは、少なくとも鎌倉時代前期には、現在の桜川が箕河(川)と呼ばれた*ということである。

  武家政権の鎌倉時代に入ると、保護する役割を持っていた荘園領主の小槻氏の力も衰え、鎌倉幕府の下で、地頭職を得て現地の警察・年貢の管理徴収・治安維持をその任務としていた吉田一族など武士たちは勢力をまし、年貢に関わる争いは絶えなかった。この争いは鎌倉時代も後期になると一層激しくなり、地頭による年貢の未納・抑留などを小槻氏が幕府に訴えるようなことがしばしばおこった。

 また、嘉暦2(1327)の吉田神社文書には以下のような文書が見られる。

  当国吉田社領并箕河村半分預所職事、教有并代官大進房承秀、及右衛門次郎泰広

  兄弟等、或構城郭、或抑留年貢候間…

 吉田神社の古文書であるが、これは箕河(川)村をめぐる領主小槻氏側と現地支配を任されていたものとの対立があったことがわかる資料だが、鎌倉時代中期から南北朝時代にかけては、郷の開発が進み「村」が形成されていく時期である。鎌倉末期には、桜川流域にはこうした村が形成されており、地頭として定着した武士が館を構えて地域の支配を行っていたと考えられる。また、吉田社領の実質的支配を行っていた大舎人氏は、地頭たちと対立しながらも、現地に定着しその分流の大舎人家恒は神主職を世襲して、箕河に居住していたとされている。資料がないため確認はできないが、川(河)和田や加倉井など上流部にも郷・村は発展し武士が基盤を得て活動してていたものと思われる。

 

*常陸第三宮…第一は鹿島神宮、第二は静神社、そして第三は吉田神社とされた。

*平将門…桓武天皇の五世孫で、下総国相馬に所領をもった桓武平氏の一人である。

 相馬小次郎と呼ばれた。父良将から相続した所領を伯父である平国香に横領された

 ことを遠因として乱を起こしたという説がある。

*蒜間の江…現在の涸沼のこと。

*平貞盛…平将門と同じ桓武平氏で従兄弟。父の国香を将門に殺害されたが、当初は

 父に非があることを理解し冷静に行動した。しかし、将門との衝突は避けられず、

 最終的には、藤原秀郷らとともに、将門の乱を鎮圧し、その功績により常陸大掾職

 を与えられ、子孫は常陸国に勢力を扶植していった。常陸平氏の祖として位置付け

 られている。平貞盛本人は都に出て従四位まで上り詰めている。四男の維衡の子孫

 が伊勢平氏となり、平清盛を輩出している。

*荘園と国衙領…平安時代はもともとの開発領主の力で、国司の強制的な徴税をはね

 返すことができないので、開発領主はしばしば、土地を中央の貴族に寄進すること

 で、国司配下の勢力から領地を守ろうとした。中央貴族は所領として寄進された荘

 園を国司の徴税から免除できるようはからい「不輸の権」を太政官や民部省といっ

 た役所から発給した。この権利を持つ荘園を官省符荘という。一方国司の管理下に

 ある土地を国衙領あるいは公領と呼ぶ。

*馬場資幹…平貞盛から数えて七代孫にあたり、吉田氏を名乗った平清幹の曾孫、父

 の家幹は石河次郎とよばれ吉田郡内の南部を所領としていた。その子たちはさらに

 各郷を分割して相続していた。

*研究者の中には江戸時代の『桃蹊雑話』『水府地理温故録』等の資料から、「箕河

 川」「箕川川」との呼称を使う例があるが、村名の「箕河」に由来する川であるか

 らそう呼ぶのはいささか違和感がある。箕河(川)と呼ぶのでよいのではないだろ

 うか。

 

第5節 河和田の唯円 

 

  平安時代から鎌倉時代にかけて、桜川の流域も次第に人口が増加し、人や物の流れも活発になっていったが、この時期相次いでうまれたいわゆる鎌倉新仏教は、この地にも少なからぬ影響を及ぼした。このうち現代日本において宗派別の人口が多いといわれるのは日蓮宗と浄土真宗である。桜川の流域にはこの二大宗派にとって重要な寺院が存在するのである。

 その一つは水戸市河和田町の浄土真宗の報仏寺である。仁治元(1240)年*に浄土真宗の開祖親鸞の直弟子のひとり唯円(ゆいえん)*によって開かれた念仏道場がその始まりといわれる。現在寺が建っている場所より南西に約500Mほどの場所が、最初に道場を開いた場所で、榎本という小字でよばれた場所の畑の中にある。かつては心字池があり「唯円の道場池」として明治時代に石碑*が建てられ、現在は水戸市の史跡に指定されているが、全く分かりずらい場所にあり、道も整備されていないため信徒以外訪れる人もほとんどない。かつての池も現在では水田と湿地になり、石碑と杉の大樹がかろうじてその面影を残している。しかし、この場所は唯円が念仏道場を開いた場所であり、親鸞も度々ここを訪れている浄土真宗にとっては極めて重要な場所である。そしてその唯円こそが、現代においても信徒であるなしに関わらず、多くの人々をひきつけてやまない「歎異抄」の著者なのである。

 「歎異抄」は師である親鸞の没後、唯円が特に関東ではびこった異端の説を嘆いて師親鸞の言葉を書き起こしたものである。「善人なをもちて往生をとぐ、いはんや悪人をや。」の一節ではじまる第3章は、悪人正機説とよばれ親鸞の教えの最大の特徴と位置付けられており、今では高校日本史教科書に登場するため多くの人が知っているが、明治になって清沢満之*がこれを紹介するまで信徒の間でも知るものは少なかった。『出家とその弟子』で知られる倉田百三はじめ司馬遼太郎、吉川英治、井上靖、五木寛之…名だたる日本の作家が虜になり、20世紀を代表する哲学者ハイデッガーやノーベル文学賞作家ロマン・ロランらの心も捕えた「歎異抄」は、単に信仰の書というよりある種、時代や洋の東西、信仰を問わず人の心に訴えかける力をもっていたといってもよいだろう。

 ちなみに唯円を名乗る人物は親鸞の弟子の中に他にもおり、「歎異抄」の著者である唯円は、「河和田の唯円」ともよばれている。すなわち、唯円が道場を開いた鎌倉時代前期には、この地は河和田と呼ばれていたことが明らかである。河和田とは河(川)の流れる場所で、和=輪になっているつまり蛇行していて、田がある場所ということを意味している。事実河和田周辺にはかつて桜川が蛇行していた痕跡があり、現在の報仏寺のあるあたりはのちに河和田城になった場所で、大規模な堀の跡が残っており周辺にはかつて池も多く見られた。水田を作り耕作に適した土地であったことも想像される。最近の研究では河和田の地は、鹿島灘で作られた塩が吉田神社周辺を経由して下野方面に運ばれた塩の道の経路にあったようで、人の往来のあった場所であることがわかっている。常陸稲田を拠点にして20年間布教していた親鸞が都に戻った後、その教えを守り扶植していくことを託された唯円が、この地を選んだ理由も納得がいくところである。

 唯円は没する1年前の正応元(1288)年に、上洛し、親鸞の曾孫である本願寺の覚如と教義をめぐって意見のやり取りをしている。そして翌年に大和の国吉野で没したといわれている。上洛後1年で没したことをみると、「歎異抄」の内容のほとんどは、河和田の地で書かれたのではないかと想像する。唯円の念仏道場は、その後文明十三(1481)年に現在地にうつされて泉渓寺となり、元禄2(1689)年、徳川光圀によって現在の寺号である報仏寺と変更して現在にいたっている。

 

*報仏寺創建…報仏寺の縁起によれば建保6(1218)年の創建とあるが、唯円の没年を考えるとありえない年代と思われる。縁起に依拠している水戸市史や観光協会な

どの記述を改める必要があろう。

*唯円・・・小野宮少将源具親の子で、親鸞の末娘覚信尼の夫・小野宮禅念の先妻の子が唯円であったとされている。

*石碑・・・明治44年に建立された。撰文は下記の清沢満之に教えを受けた浄土真宗大谷派の僧で東京大学文学部哲学科を出た近角常観(ちかずみじょうかん)である。近角は「歎異抄」を学び、その後宗派改革運動に身を投じて法主を批判するなどしたため僧戸籍をはく奪されている。題字は東本願寺21世法主大谷光勝の九男。宗派の要職を歴任。石碑自体は親鸞650年遠忌にあたって作ったことが記されている。

*清沢満之(きよざわまんし)…1863~1903。浄土真宗大谷派の僧侶であり、東京大学文学部哲学科を首席で卒業した哲学者でもある。浄土真宗の改革者として知られている。歎異抄をよく読み、知られていなかった歎異抄を改めて世に問うた。

 

第6節 日蓮と加倉井

 

桜川の上流部はもともと那珂郡であったが、吉田郡がわかれたあとは、那珂西郡とよばれていた。その中で前述の浄土真宗報仏寺があった場所は河(川)和田郷とよばれていたが、その北西隣が隠井(かくらい)郷と呼ばれた場所だった。隠井の由来については諸説あるが、『新編常陸國誌』には「コノ村二古井アリ名ヅケテ隠ト云、村名コレヨリ起ル」とある。久寿2(1155)年の鹿島神宮神領目録に「かくらい五斗」とみえるところから、平安末期には隠井の地名は定着していた。民話には八幡太郎源義家軍兵のための飲み水をさがしていたところ藪の中から発見したという伝説がある。現在の水戸市加倉井町付近である。

 鎌倉時代に至って、この地は南部実長本領である甲斐国波木井(ばぎり)に名をとって波木井実長とよばれる)によって支配されていた。甲斐源氏南部光行*の三男波木井実長*は、本拠である波木井の地や陸奥糠部(八戸付近)の他に隠井郷の地頭職も兼ねていたのであった。鎌倉幕府の有力御家人として鎌倉に滞在することも多かった実長は、1254(建長4)年に鎌倉に出て弘教を開始した日蓮に、1269年ごろに出会い、辻説法を聞いて信者となり、数々の迫害を受けていた日蓮の外護(げご)者になる。

 日蓮は1271(文永8)年、佐渡へ流罪になり、3年の佐渡暮らしののち、1274(文永11)年に鎌倉へもどった。その時波木井実長は自分の本領である甲斐国波木井郷へ日蓮を招き、日蓮は身延山に草庵を開く。これが身延山久遠寺となるのである。実長は身延山周辺の一千町歩を身延山領として寄進した。

 1282(弘安5)年、佐渡での過酷な3年、そして身延で暮らしで病を得た日蓮は、領主波木井実長のすすめで、病気療養目的で「ひたちのゆ」に向かうため、9年間住んだ身延山を旅立った。この「ひたちのゆ」は当時実長の二男波木井実氏が地頭職を譲られ、母の妙徳尼と居住していた場所であり、波木井実長の子息たちのすすめにより、日蓮は療養におもむくことになったのである。日蓮入滅前の最後の手紙である弘安5年9月19日の「波木井殿御報」*には「きうだち(公達)にす護(守護)」つまり波木井の子息たちに守護されて「ひたちのゆ」へ「くりかげ(栗鹿毛)の御馬」に乗って移動していたことが書き残されている。日蓮が「ひたちのゆ」=常陸の湯を目指していたことは間違いないのだが、これまで研究の中で常陸の湯がどこであるかが様々に意見が分かれている。下野(栃木)の塩原説や陸奥磐城のさばこの湯=いわき湯本説が挙げられている*が、当時の外護者の一族に守られ目指す場所としては、波木井一族の所領である隠井郷を目指したと考えるのが至当であろう*。

 隠井郷周辺には、成沢(水戸市成沢町)に古くから鉱泉があり、三湯(水戸市三湯町)にも霊泉の伝説がある。おそらく八幡太郎由来の霊泉=鉱泉を領主である実氏が身延にいる身内に伝えていたのであろう。また、単純に湯治であれば甲斐にも、甲斐から近い伊豆や箱根にも湯治場があるが、日蓮を迫害した北条氏の本拠地であることから、静かな環境と波木井氏の庇護下を考えたというのが正しい見方と思われる。

 結局、日蓮は「ひたちのゆ」にたどりつくこと無く武蔵国池上郷で入滅しているが、隠井郷地頭の波木井実氏は、その後母の妙徳尼がなくなったこともあり、領地に常陸国初の法華道場を建てることとし、1293(永仁元)年、日蓮門下の中老の一人日高を招いて開山となし妙徳寺を建立した。

 波木井実氏の子孫は南北朝時代にいたって加倉井氏を名乗り、室町時代には水戸地域の支配者の江戸氏の重臣として、この地に加倉井館構えて一円の支配を守り続けた。佐竹氏の支配となってもこの地に留まったが、徳川氏水戸藩成立後は、庄屋として地域に根付き江戸後期には、郷士身分を与えられている。

 幕末には一族から加倉井砂山*を輩出した。砂山の私塾である日新塾は広域にその名を知られ、藤田東湖の子息で天狗党の頭領であった藤田小四郎、桜田門外の変に名を連ねる鯉渕要人・斎藤監物、水戸出身で唯一維新の功労者として爵位を受けた香川敬三、娘婿で第百生命など東京川崎財閥を築いた川崎八右衛門など多くの人材を輩出したことでも知られている。昭和の大横綱双葉山が日蓮宗に帰依するきっかけとなったのもまた、この妙徳寺との縁であったと寺伝は伝えている。また現代では、一族から読売ジャイアンツや近鉄バッファローズで1950年代に活躍した投手の加倉井実出しており、その墓所は本堂裏手にある。美術の最高峰・日本芸術院賞受賞者で日展常任理事の日本画家加倉井和夫もこの一族の出身である。

 地図で見ると、妙徳寺は桜川の支流にはさまれた丘陵上にあり、下野方面からの人の往来が古くからある場所である。このあたりの桜川は小川のごとき流れであるが、その一筋を生み出す「隠井」こそが、大河のごとき歴史のうねりを見つめ続けていたのである。

 

*南部光行(なんぶみつゆき)・・・ 1165~1236。甲斐源氏加賀美遠光の三男。源頼朝挙兵からつき従い、その功により甲斐国南部を与えられ南部氏を名乗る。奥州合戦に軍功あり、陸奥糠部郡を与えられる。奥州の南部氏の祖。

*波木井実長(はぎりさねなが)・・・1222~1297。鎌倉中期の武士。南部光行の三男。父から波木井郷の地頭職を割譲され、波木井を名乗る。「はぎり」は「はぎい」とも読む。

*「波木井殿御報」全文

畏み申し候。みちのほどべち事候はで、いけがみまでつきて候。みちの間、山と申し、かわと申し、そこばく大事にて候ひけるを、きうだちにす護せられまいらせ候ひて、難もなくこれまでつきて候事、をそれ入り候ながら悦び存じ候。さては、やがてかへりまいり候はんずる道にて候へども、所らうのみにて候へば、不ぢゃうなる事も候はんずらん。さりながらも日本国にそこばくもてあつかうて候みを、九年まで御きえ候ひぬる御心ざし申すばかりなく候へば、いづくにて死に候とも、はかをばみのぶさわにせさせ候べく候。又くりかげの御馬はあまりをもしろくをぼへ候程に、いつまでもうしなふまじく候。ひたちのゆへひかせ候はんと思ひ候が、もし人にもぞとられ候はん。又そのほかいたはしくをぼへば、ゆよりかへり候はんほど、かづさのもばら殿のもとにあづけをきたてまつるべく候に、しらぬとねりをつけて候ひては、をぼつかなくをぼへ候。まかりかへり候はんまで、此のとねりをつけをき候はんとぞんじ候。そのやうを御ぞんぢのために申し候。恐々謹言。 

*「ひたちのゆ」諸説・・・宮崎英修「「波木井殿御報」常陸の湯について」(立正大学仏教学会『大崎学報』125、1970)

*加倉井砂山(かくらいさざん)・・・1805~1855。水戸郊外成沢村の庄屋だったが、郷士身分を得ている。父が開いた私塾日新塾で20歳ごろから教育に携わる。日新塾は30年間に3000人もの人々が学んだとされていて、四書五経は言うに及ばず医・算・暦や西洋砲術や馬術・弓術も学んだ。当時では珍しく女子教育も行っていた。日新塾は近年まで建物が残っていたが、先年取り壊されてしまった。世界遺産で教育遺産としての指定を目指す折柄、再建保存を望む声がある。 

 

第7節 南北朝・室町時代の桜川

 

 鎌倉幕府が滅亡する前後、桜川中流下流域の水戸周辺から府中(石岡)までを支配していた大掾氏の大掾高幹は、当初鎌倉幕府方につき、幕府滅亡後のいわゆる中先代の乱*で北条家の遺児北条時行が破れてから、のちに足利尊氏方となったので、常陸北部に勢力を張るの源氏の佐竹氏にやや押され気味となった。そうした中で、大掾氏配下の鍛冶弾正貞国が建武3(1336)年に、桜川中流部に河和田館をつくって周辺の支配に乗り出した。このころから桜川や涸沼川の上流部は開発がすすみ「中妻三十三郷」と呼ばれるようになった。

 一方、桜川上流部は、前述のように平安時代末期に那珂郡がわかれて那珂西郡となっており、鎌倉時代にいたって源頼朝の有力御家人であった那珂実久*が、頼朝に従わなかった佐竹氏を攻略した功により、那珂東・那珂西両郡を与えられ惣地頭職を得て定着。那珂東郡はのちに北条氏一族に奪われたものの、那珂氏の一族は那珂西郡内各郷の地頭として広く定着をしていた。しかし、鎌倉幕府の滅亡そして南北朝時代の突入で、那珂氏は当初は南朝方に属し、北朝方の佐竹氏におされ衰退していたが、建武3(1336)年に楠木正成の弟楠木正家が入った瓜連城の合戦にいたって、那珂氏はほぼ全滅した。唯一人生き延びた那珂通泰は再起したのち足利尊氏に認められて、今度は北朝につき、旧領のうち那珂西郡江戸郷を与えられ、その子那珂通高の代から江戸氏を名乗るようになった。

 江戸通高は北朝方の佐竹氏と接近、常陸守護となった佐竹義篤の娘を娶り、佐竹氏の一族としての扱いをうけ南朝方の勢力掃討に奔走した。嘉慶2(1388)年、南朝側との激戦となった難台城の戦いで江戸通高は戦死したものの、その功が認められ、道高の子の江戸通景は、恩賞として鎌倉公方足利氏満より河(川)和田、鯉渕、赤尾関といった桜川上流部を含む地域を与えられた通景は本拠地を江戸郷から河和田へと移し、在地領主の加倉井氏を取りこんで那珂西郡南部つまり桜川上流部や涸沼川上流部の地域を支配していくことになった。この時河和田城主であった鍛冶氏は追放された。

 応永14(1407)年、佐竹氏が家督をめぐって「佐竹の乱」*をおこした。この内乱は約1世紀も続いたが、原因は佐竹氏の跡目争いに鎌倉公方足利持氏が介入したことによる。応永23(1416)年、関東全域をまきこむ上杉禅秀の乱*が発生すると、関東の武士たちは上杉禅秀方と鎌倉公方持氏方に分かれて争うことになったが、桜川上流部を支配する江戸氏は鎌倉方に、桜川下流部を支配する大掾氏は禅秀方にそれぞれついた。乱は鎌倉方の勝利におわり、大掾氏は一部の所領を没収されたらしく衰退していくことになった。

 応永33(1426)年、江戸通房は、大掾氏の当主大掾満幹が一族とともに祭礼のため水戸城を留守にした機を見て、水戸城を急襲することに成功。水戸城を占拠し、大掾氏は水戸の地に二度ともどることはできなかった。水戸周辺の在地領主は江戸氏のもとに服属し、大掾一族といわれる桜川沿い箕河村の在地領主箕川氏も江戸氏の配下となった。つまりここに桜川の上流から下流に至る地域全体を支配する領主が初めて生まれたのである。

 江戸氏は、水戸城に入ってここを本拠として勢力を拡大させていくが、時に佐竹氏の内紛に乗じて領地を拡大させたり、鹿島郡に進出したりと、当初臣従していた佐竹氏から独立した存在になった。そして鹿島郡には春秋氏という在地領主がいたが、この春秋氏は江戸氏が本拠を水戸城に移したあと、河和田城に入り江戸氏の重臣として仕えている。江戸氏と佐竹氏は時に一族同位の扱い、時に敵対を繰り返していたが、戦国時代を通じて桜川一帯が佐竹氏の手に落ちることはなかった。しかし、戦国末期江戸氏は内紛を起こして弱体化した。そのような折、江戸氏の命運を絶つ大きなうねりがやってきた。

 それは豊臣秀吉による天下統一事業の仕上げ、天正18(1590)年の小田原攻めある。内紛状態にあった江戸氏は、当主の江戸重通が秀吉の小田原参陣命令に応えられず、戦後の領地安堵を保証されなかった。そして秀吉から佐竹義宣に対して所領公認があり、そのなかに江戸氏の所領も含まれていた。同年12月、これを根拠に佐竹は軍勢を発して水戸城を攻略。江戸重通は親族の結城氏を頼って落ちのびていった。桜川一帯を含めた地域は佐竹氏の支配下となったのである。

 

*中先代の乱…この乱は1333年に滅亡した鎌倉幕府の14代執権北条高時の遺児であ

 る北条時行が、1335年に信濃から挙兵し一時期鎌倉を占拠したものの撃退された

 もの。

*那珂実久…大中臣姓の一族らしいが、詳しい出自は不明。鎌倉幕府の公式記録『吾

 妻鏡』には那珂三左衛門尉頼朝の上洛に供奉し長く側近くで警護にあたっていた記

 述がある。京都守護の役割を担っていたとの説もある。

*鯉渕・赤尾関…茨城県水戸市(旧内原地区)。涸沼川上流域。

*上杉禅秀の乱…関東管領上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方足利持氏に解任されたことを

 原因として反乱を起こした事件で、持氏は追い詰められ駿河に逃れるが、当時の幕

 府の援軍に依り禅秀方が敗れた事件。関東はこれにより分断された。

*佐竹の乱…応永14(1410)年佐竹氏の当主佐竹義盛が他界した後、後継がなかっ

 たため鎌倉公方足利持氏が関東管領上杉憲定の子龍保丸のちの佐竹義人に佐竹氏を

 相続させたことを不満に思った、佐竹一族の山入氏などが反発し約1世紀にわたっ

 て争われた佐竹一族の内紛。

 

第8節 佐竹時代から水戸藩成立期の桜川 

 

 天正19(1591)年、佐竹義宣はそれまで拠点としてきた太田城を出て水戸城に移った。翌年には朝鮮出兵を命じられて渡海した義宣であったが、文禄2(1593)年には本格的な水戸城の普請と城下町整備をはじめた。佐竹時代に桜川の下流にあたる現在の水戸市下市地域はまだ城下町として整備されておらず、桜川(当時の箕川)は千波湖に直接流入し、千波湖から那珂川へ合流する川筋は、現在の水戸市城東方面へ北上して合流するルートであったらしく、低湿地であった下市一帯はたびたび増水による氾濫を繰り返していたようである。また、箕川の呼称は千波湖までであり、千波湖以降の川を何と呼んでいたかは定かではない。これは河道改修が繰り返された江戸時代まで続く。

 さて、佐竹が常陸の一円支配をしたのはわずか13年間であったが、その間、桜川の流域は、当主である佐竹義宣の直轄地つまり蔵入地であった(常陸国内には一族の佐竹義久が豊臣秀吉から直接支配を認められた領地と豊臣家の蔵入地となった場所が混在していた)。前領主の江戸氏が支配していた那珂川・桜川沿いほとんどが蔵入地となったのである。この蔵入地は、それぞれの場所が家臣に預けられた預かり地となっていたが、文禄5(1596)年の「御蔵江納帳」には、上流部の池野辺が「川井大膳」、有賀が「川井備前」、見川が「とうけん」などの名前見える。各地の城館に根付いていた領主たちの多くは駆逐されたと見える。河和田や見川にいた江戸氏の重臣である春秋氏などは、江戸氏が親族の結城氏へ落ちのびたことに伴い、主家と運命を共にしたため、支配者不在の地に佐竹の家臣がすんなり入ったのではないだろうか。しかし、加倉井氏など、そのまま在地となった城館主たちもいたが、城館を譲渡したり破却したりせざるを得なかった。

 こうして佐竹氏の支配がはじまったが、1600年関ヶ原の戦いにおいて、佐竹は旗幟を鮮明にしなかったものの、戦後すぐの改易・転封にはかからなかった。ところが慶長7(1602)年、徳川家康は突然、佐竹義宣に出羽への国替を命じた。これにより佐竹氏の家臣は苦渋の選択を迫られた。出羽に付き従っていくか、常陸に残るか。兄が出羽、弟が常陸など家族が別離する選択をしたものもあった。

 佐竹国替後は直ちに徳川家康の五男・武田信吉*が15万石で入ったが、間もなく病没し、翌慶長8(1603)年、家康の十男徳川頼宣*が、そして頼宣の駿河移転に伴い、慶長14(1609)年12月に、十一男徳川頼房が25万石で水戸に封じられた(元和8年には加増され28万石になった)。信吉は病弱、頼宣も幼少で一度も領地に赴くことがなく、徳川家水戸藩の祖となった頼房もはじめて領地に足を踏み入れたのは元和5(1619)年、17歳になってからのことであった。では1602年から1619年の18年間水戸藩は家康の命を受けた徳川家譜代の臣たちにより行われていたのである。

 特にその中で在地(村々)支配を担当したのが伊奈備前守忠次*と芦澤伊賀守信重らであった。伊奈は関東総代官(関東郡代)として、関東一円にその実績を残しているが、この伊奈忠次らの指示のもと、頼房の水戸移封の翌年慶長15(1610)年には、城下町形成の土台ともなる、千波湖の堤による締切とその放水路の新設がはじまった。千波湖はそれまで下流側に向かっては、しっかりとした河川としての流水経路がなく悪い言葉でいえば「垂れ流し」状態であった。このとき開削された放水路の一つが現在も水戸の代表的景観であり、用水として現在も機能している備前堀である。当時の備前堀は千波湖の排水路として考えられており、次第に灌漑目的で使用されるようになったが、当時のこのあたりは亀ヶ池、鏡ヶ池、赤沼の小さい沼が点在し、度々千波湖が氾濫する低湿地であり、ここに水戸城外郭をつくり城下町を形成するには、千波湖からの流路を兼ねた堀を排水路とすることが重要であった。備前堀は現在水戸駅南を流れる桜川下流の流路と同じ目的をもった、いわば桜川下流の役割をになっていたと考えてよいだろう。一方、水戸城の外堀を形成する目的で千波湖から現在の城東地区を北上して那珂川に注ぐ流路も形成された。江戸時代を通じてしばしばその流路は変更されたが、当時はその川はまだ「桜川」とは呼ばれることはなく「馬場川」などとも呼ばれていた。こうして排水が出来、千波湖が仕切られたことにより、下市地区への城下町形成が可能になったのである。低湿地や沼には、当時高台となっていた旧武熊城・東台の地から土砂が運ばれ埋め立てに使われ武家地・町人地が新たにつくられた。ただ、江戸時代を通じて何度も洪水に悩まされ、流路変更や堤のつくり替えは絶えずおこなわれていた。

 

*佐竹義宣…1570-1633。豊臣秀吉により常陸54万石を認められた大名。小田原攻め以前は北方で伊達政宗と対峙し、それ以前は小田原の後北条氏との衝突が絶えなかったが、越後の上杉氏と結び、関ヶ原の戦いに至っても内通していた。また、石田三成と昵懇であったため、国替を命じられたといわれている。

*水戸藩の領域…水戸藩の領域は水戸以北の現在の茨城県北部および水戸から霞ヶ浦に至る陸路上の現茨城町・小美玉市付近、さらに水運の要衝であった潮来市付近、栃木県馬頭町付近がそれにあたる。

*武田信吉…1588-1603。徳川家康の五男。母は甲斐武田氏の家臣秋山氏の娘。生来病弱で、妻はあったが、子がなくその後断絶した。

*徳川頼宣…1602-1671。徳川家康の十男。母は頼房と同じお万の方。生まれた翌年に水戸に領地を与えられたが、駿府藩主を経て、1619年、紀伊和歌山54万石の藩主となった。

*徳川頼房…1603-1661。徳川家康の十一男。母はお万の方(安房の正木氏の娘)幼少期は、家康の膝下の駿府で育ち、家康没後に江戸に在住。年齢の近いこともあり3代将軍家光と親しく折にふれ相談に応じていて、江戸定府を命じられた。極官は正三位権中納言。おくり名は威公。在世中11度水戸に入り治政に指示を与えている。

*伊奈備前守忠次…1550-1610。三河以来の徳川家の譜代の家臣。家康の江戸入り以後、関東代官頭の一人として民政に力をふるい、関東各地に堤や堀などを開削。至る場所に「備前…」と名のつく場所を今に残す。その子息忠治も治水等に多くの足跡を残した。

 

第2章 光圀公と桜の物語

 

第1節

 

 

第2節

 

 

第3節

 

 

第4節

 

 

第5節

 

 

第6節

 

 

第7節

 

 

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