桜川のあゆみ 吉田郡と箕川

吉田神社と境内の枝垂桜
吉田神社と境内の枝垂桜

ここから平安時代・鎌倉時代の桜川流域の話に入って行きます。貴族の時代そして武士の出現で桜川周辺にも大きな動きがみられた時代です。

 

 平安時代の初期、桜川の流れる那珂(那賀)郡では郡司として力をふるっていた宇治部氏の勢力が衰えるのと前後して、「吉田郡」の新設が動きをおこった。常陸第三宮である吉田神社は日本武尊の伝承を背景にした古い神社で、周辺から篤い崇敬をうけており、吉田郡は10世紀前半には成立したとされている。吉田郡はいわゆる神郡の一つであるが、神郡とは神社の所領といった意味で、常陸には古来から鹿島神宮の神郡である鹿嶋郡があり、吉田郡もこれにならったものである。

 ちょうどこの10世紀前半から半ばにかけての時期は、さまざまな秩序や体制が変質し、武士があらわれたのもこの時期。常陸国では天慶2(939)年に関東全体を揺るがした平将門の乱が発生している。日本初の軍記物語である『将門記』には、天慶3年に「吉田郡蒜間の江」*で宿敵である従兄弟の平貞盛の妻らを捕えたという記録が書かれている。これが古文書にみる「吉田郡」の初出となる。つまり10世紀前半には吉田郡は成立していたということになるのである。

 吉田郡のエリアは、南は涸沼、北は久慈川南岸、東は那珂川河口南岸、そして西は吉田郷の西端となっていて、吉田郡が分離したのちの那珂郡は平安末期までに、那珂西郡と那珂東郡に分かれた。つまり、平安時代には桜川流域は下流部は吉田郡、上流部は那珂西郡に分かれたということになる。

 平安時代、吉田神社は宮司の吉美侯(きみこ)氏と大祝(おおはふり)つまり神官職の大舎人(おおとねり)氏によって社務が執行されており、社務の実権は次第に大舎人氏が握るようになっていった。一方、郡司の職は、将門の乱の鎮圧の功により常陸大掾に任命された平貞盛の系譜をひく常陸平氏の一族が代々これを継承。吉田郡にも常陸平氏一族が入り、勢力を拡大させていた。

 八幡太郎源義家がその名をあげた後三年の役(1083~87)の頃、常陸平氏の平清幹が、吉田郡司職を掌握し吉田氏を名乗るようになっていた。さらにその曾孫の代には吉田郡内に吉田氏の一族は分流していた。平安末期には、吉田郡は20ある郷のうち、8か郷が吉田神社の社領、残り12か郷が国衙領となっており、吉田氏の分流した一族は各郷に定着した郷地頭として地盤を固めていったようである。

 平清幹の郡司就任とともに、国司の命令の下で徴税をしようとする吉田氏など武士勢力と、これまで郡を取り仕切ってきた吉田神社側の吉美侯・大舎人氏との対立が生じた。神社側は対抗するため、社領を中央貴族で太政官左大史をつとめる小槻氏に寄進し、その力で所領の保護を受け徴税免除の特権をうけることになった。かくして吉田郡の半分の田地は荘園となったのである。

 12世紀後半、源頼朝は鎌倉に武家政権を樹立するが、頼朝は全国の公領・荘園の地頭の任命権を得る。挙兵以後、頼朝に従い御家人となった吉田氏分流の馬場資幹も吉田郷の地頭職に補任されたが、馬場資幹は失脚した常陸平氏の宗家・多気氏の所領を受け継ぎ、建保2(1224)年には、平貞盛以来の常陸大掾職にまで任じられる。馬場資幹は常陸平氏の分流で吉田郡の一郷の地頭に過ぎなかったが、源頼朝に目をかけられ、宗家をしのいで栄達していったのである。このあたりの事情は鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』に詳しい。

 馬場資幹は桜川を眼下に望む水戸城の原型となる館をつくり、吉田郡の一角を占めていたが、常陸大掾となると、国府のあった府中(石岡)と吉田郡内の二カ所を拠点とすることになる。資幹は国府に至るが、その子たちには吉田郡内に所領が分割して与えられた。そのうち、四男箕河四郎長幹に箕川の地を、九男川和田九郎某に川和田(河和田)の地を分与した。吉田神社の古文書の中にある建暦3(1213)年の文書中に「箕河村」という文字が残されていると『新編常陸国誌』は伝える。いずれにせよ、桜川沿いに支配者の名が確認できて、「箕川(河)」の名が明らかになるのは、この馬場資幹があらわれた鎌倉時代前期ということになる。そしてはっきりしてくるのは、少なくとも鎌倉時代前期には、現在の桜川が箕河(川)と呼ばれたということである。

  武家政権の鎌倉時代に入ると、保護する役割を持っていた荘園領主の小槻氏の力も衰え、鎌倉幕府の下で、地頭職を得て現地の警察・年貢の管理徴収・治安維持をその任務としていた吉田一族など武士たちは勢力をまし、年貢に関わる争いは絶えなかった。この争いは鎌倉時代も後期になると一層激しくなり、地頭による年貢の未納・抑留などを小槻氏が幕府に訴えるようなことがしばしばおこった。

 また、嘉暦2(1327)の吉田神社文書には以下のような文書が見られる。

  当国吉田社領并箕河村半分預所職事、教有并代官大進房承秀、及右衛門次郎泰広

  兄弟等、或構城郭、或抑留年貢候間…

 吉田神社の古文書であるが、これは箕河(川)村をめぐる領主小槻氏側と現地支配を任されていたものとの対立があったことがわかる資料だが、鎌倉時代中期から南北朝時代にかけては、郷の開発が進み「村」が形成されていく時期である。鎌倉末期には、桜川流域にはこうした村が形成されており、地頭として定着した武士が館を構えて地域の支配を行っていたと考えられる。また、吉田社領の実質的支配を行っていた大舎人氏は、地頭たちと対立しながらも、現地に定着しその分流の大舎人家恒は神主職を世襲して、箕河に居住していたとされている。資料がないため確認はできないが、川(河)和田や加倉井など上流部にも郷・村は発展し武士が基盤を得て活動してていたものと思われる。

 

鎌倉時代は桜川流域に、由緒ある社寺が作られた時代でもありますが、次回その話題に触れてまいります。

 

*常陸第三宮…第一は鹿島神宮、第二は静神社、そして第三は吉田神社とされた。

*平将門…桓武天皇の五世孫で、下総国相馬に所領をもった桓武平氏の一人である。

 相馬小次郎と呼ばれた。父良将から相続した所領を伯父である平国香に横領された

 ことを遠因として乱を起こしたという説がある。

*蒜間の江…現在の涸沼のこと。

*平貞盛…平将門と同じ桓武平氏で従兄弟。父の国香を将門に殺害されたが、当初は

 父に非があることを理解し冷静に行動した。しかし、将門との衝突は避けられず、

 最終的には、藤原秀郷らとともに、将門の乱を鎮圧し、その功績により常陸大掾職

 を与えられ、子孫は常陸国に勢力を扶植していった。常陸平氏の祖として位置付け

 られている。平貞盛本人は都に出て従四位まで上り詰めている。四男の維衡の子孫

 が伊勢平氏となり、平清盛を輩出している。

*荘園と国衙領…平安時代はもともとの開発領主の力で、国司の強制的な徴税をはね

 返すことができないので、開発領主はしばしば、土地を中央の貴族に寄進すること

 で、国司配下の勢力から領地を守ろうとした。中央貴族は所領として寄進された荘

 園を国司の徴税から免除できるようはからい「不輸の権」を太政官や民部省といっ

 た役所から発給した。この権利を持つ荘園を官省符荘という。一方国司の管理下に

 ある土地を国衙領あるいは公領と呼ぶ。

*馬場資幹…平貞盛から数えて七代孫にあたり、吉田氏を名乗った平清幹の曾孫、父

 の家幹は石河次郎とよばれ吉田郡内の南部を所領としていた。その子たちはさらに

 各郷を分割して相続していた。

*研究者の中には江戸時代の『桃蹊雑話』『水府地理温故録』等の資料から、「箕河

 川」「箕川川」との呼称を使う例があるが、村名の「箕河」に由来する川であるか

 らそう呼ぶのはいささか違和感がある。箕河(川)と呼ぶのでよいのではないだろ

 うか。

 

【参考文献】

・吉田神社編『吉田神社古文書』(1970)

・宮田俊彦編『吉田神社文書』(茨城大学歴史研究会、1957)

・『水戸市史』上巻(水戸市、1963)

・『水戸概史』(水戸市、1999)

・北山茂夫『平将門』(講談社学術文庫、2005)

・梶原正昭訳注『将門記』1・2(平凡社・東洋文庫、1975、1976) 

・五味文彦ほか編『現代語訳・吾妻鏡』(吉川弘文館、2012)

 

  

 

 

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