桜川のあゆみ 河和田の唯円

唯円の道場池跡。誰にも知られずひっそりと佇む。
唯円の道場池跡。誰にも知られずひっそりと佇む。

鎌倉室町両時代は、いわゆる鎌倉新仏教とよばれる易行を特徴とする宗派が相次いで誕生し、庶民に仏教が広まった時代でもあります。実は桜川流域は、日本の仏教史にも大きな役割をになった2つの寺院があったのです。

 

 平安時代から鎌倉時代にかけて、桜川の流域も次第に人口が増加し、人や物の流れも活発になっていったが、この時期相次いでうまれたいわゆる鎌倉新仏教は、この地にも少なからぬ影響を及ぼした。このうち現代日本において宗派別の人口が多いといわれるのは日蓮宗と浄土真宗である。桜川の流域にはこの二大宗派にとって重要な寺院が存在するのである。

 その一つは水戸市河和田町の浄土真宗の報仏寺である。仁治元(1240)年*に浄土真宗の開祖親鸞の直弟子のひとり唯円(ゆいえん)*によって開かれた念仏道場がその始まりといわれる。現在寺が建っている場所より南西に約500Mほどの場所が、最初に道場を開いた場所で、榎本という小字でよばれた場所の畑の中にある。かつては心字池があり「唯円の道場池」として明治時代に石碑*が建てられ、現在は水戸市の史跡に指定されているが、全く分かりずらい場所にあり、道も整備されていないため信徒以外訪れる人もほとんどない。かつての池も現在では水田と湿地になり、石碑と杉の大樹がかろうじてその面影を残している。しかし、この場所は唯円が念仏道場を開いた場所であり、親鸞も度々ここを訪れている浄土真宗にとっては極めて重要な場所である。そしてその唯円こそが、現代においても信徒であるなしに関わらず、多くの人々をひきつけてやまない「歎異抄」の著者なのである。

 「歎異抄」は師である親鸞の没後、唯円が特に関東ではびこった異端の説を嘆いて師親鸞の言葉を書き起こしたものである。「善人なをもちて往生をとぐ、いはんや悪人をや。」の一節ではじまる第3章は、〝悪人正機説”とよばれ親鸞の教えの最大の特徴と位置付けられており、今では高校日本史教科書に登場するため多くの人が知っているが、明治になって清沢満之*がこれを紹介するまで信徒の間でも知るものは少なかった。『出家とその弟子』で知られる倉田百三はじめ司馬遼太郎、吉川英治、井上靖、五木寛之…名だたる日本の作家が虜になり、20世紀を代表する哲学者ハイデッガーやノーベル文学賞作家ロマン・ロランらの心も捕えた「歎異抄」は、単に信仰の書というよりある種、時代や洋の東西、信仰を問わず人の心に訴えかける力をもっていたといってもよいだろう。

 ちなみに唯円を名乗る人物は親鸞の弟子の中に他にもおり、「歎異抄」の著者である唯円は、「河和田の唯円」ともよばれている。すなわち、唯円が道場を開いた鎌倉時代前期には、この地は河和田と呼ばれていたことが明らかである。河和田とは河(川)の流れる場所で、和=輪になっているつまり蛇行していて、田がある場所ということを意味している。事実河和田周辺にはかつて桜川が蛇行していた痕跡があり、現在の報仏寺のあるあたりはのちに河和田城になった場所で、大規模な堀の跡が残っており周辺にはかつて池も多く見られた。水田を作り耕作に適した土地であったことも想像される。最近の研究では河和田の地は、鹿島灘で作られた塩が吉田神社周辺を経由して下野方面に運ばれた塩の道の経路にあったようで、人の往来のあった場所であることがわかっている。常陸稲田を拠点にして20年間布教していた親鸞が都に戻った後、その教えを守り扶植していくことを託された唯円が、この地を選んだ理由も納得がいくところである。

 唯円は没する1年前の正応元(1288)年に、上洛し、親鸞の曾孫である本願寺の覚如と教義をめぐって意見のやり取りをしている。そして翌年に大和の国吉野で没したといわれている。上洛後1年で没したことをみると、「歎異抄」の内容のほとんどは、河和田の地で書かれたのではないかと想像する。唯円の念仏道場は、その後文明十三(1481)年に現在地にうつされて泉渓寺となり、元禄2(1689)年、徳川光圀によって現在の寺号である報仏寺と変更して現在にいたっている。

 

*報仏寺創建…報仏寺の縁起によれば建保6(1218)年の創建とあるが、唯円の没年を考えるとありえない年代と思われる。縁起に依拠している水戸市史や観光協会な

どの記述を改める必要があろう。

*唯円・・・小野宮少将源具親の子で、親鸞の末娘覚信尼の夫・小野宮禅念の先妻の子が唯円であったとされている。

*石碑・・・明治44年に建立された。撰文は下記の清沢満之に教えを受けた浄土真宗大谷派の僧で東京大学文学部哲学科を出た近角常観(ちかずみじょうかん)である。近角は「歎異抄」を学び、その後宗派改革運動に身を投じて法主を批判するなどしたため僧戸籍をはく奪されている。題字は東本願寺21世法主大谷光勝の九男。宗派の要職を歴任。石碑自体は親鸞650年遠忌にあたって作ったことが記されている。

*清沢満之(きよざわまんし)…1863~1903。浄土真宗大谷派の僧侶であり、東京大学文学部哲学科を首席で卒業した哲学者でもある。浄土真宗の改革者として知られている。歎異抄をよく読み、知られていなかった歎異抄を改めて世に問うた。

 

 

【参考文献】

・国立国会図書館デジタル化資料「慕帰絵詞」

 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2590848?tocOpened=1

・「河和田の歴史と水戸」http://www1.plala.or.jp/papa/enkaku.html#jump

・『水戸市史』上巻(水戸市、1963)

・『水戸概史』(水戸市、1999)

・浄土真宗教学研究所編『歎異抄(現代語訳)』(本願寺出版部、1998)

 

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