桜川のあゆみ 日蓮と加倉井

隠井山妙徳寺の山門
隠井山妙徳寺の山門

先に紹介した浄土真宗の開祖親鸞同様、日蓮宗の開祖日蓮ともゆかりがある桜川流域。さてどのようなつながりがあったのでしょうか。

 

桜川の上流部はもともと那珂郡であったが、吉田郡がわかれたあとは、那珂西郡とよばれていた。その中で前述の浄土真宗報仏寺があった場所は河(川)和田郷とよばれていたが、その北西隣が隠井(かくらい)郷と呼ばれた場所だった。隠井の由来については諸説あるが、『新編常陸國誌』には「コノ村二古井アリ名ヅケテ隠ト云、村名コレヨリ起ル」とある。久寿2(1155)年の鹿島神宮神領目録に「かくらい五斗」とみえるところから、平安末期には隠井の地名は定着していた。民話には八幡太郎源義家が軍兵のための飲み水をさがしていたところ藪の中から発見したという伝説がある。現在の水戸市加倉井町付近である。

 鎌倉時代に至って、この地は南部実長(本領である甲斐国波木井(ばぎり)に名をとって波木井実長とよばれる)によって支配されていた。甲斐源氏南部光行*の三男波木井実長*は、本拠である波木井の地や陸奥糠部(八戸付近)の他に隠井郷の地頭職も兼ねていたのであった。鎌倉幕府の有力御家人として鎌倉に滞在することも多かった実長は、1254(建長4)年に鎌倉に出て弘教を開始した日蓮に、1269年ごろに出会い、辻説法を聞いて信者となり、数々の迫害を受けていた日蓮の外護(げご)者になる。

 日蓮は1271(文永8)年、佐渡へ流罪になり、3年の佐渡暮らしののち、1274(文永11)年に鎌倉へもどった。その時波木井実長は自分の本領である甲斐国波木井郷へ日蓮を招き、日蓮は身延山に草庵を開く。これが身延山久遠寺となるのである。実長は身延山周辺の一千町歩を身延山領として寄進した。

 1282(弘安5)年、佐渡での過酷な3年、そして身延で暮らしで病を得た日蓮は、領主波木井実長のすすめで、病気療養目的で「ひたちのゆ」に向かうため、9年間住んだ身延山を旅立った。この「ひたちのゆ」は当時実長の二男波木井実氏が地頭職を譲られ、母の妙徳尼と居住していた場所であり、波木井実長の子息たちのすすめにより、日蓮は療養におもむくことになったのである。日蓮入滅前の最後の手紙である弘安5年9月19日の「波木井殿御報」*には「きうだち(公達)にす護(守護)」つまり波木井の子息たちに守護されて「ひたちのゆ」へ「くりかげ(栗鹿毛)の御馬」に乗って移動していたことが書き残されている。日蓮が「ひたちのゆ」=常陸の湯を目指していたことは間違いないのだが、これまで研究の中で常陸の湯がどこであるかが様々に意見が分かれている。下野(栃木)の塩原説や陸奥磐城のさばこの湯=いわき湯本説が挙げられている*が、当時の外護者の一族に守られ目指す場所としては、波木井一族の所領である隠井郷を目指したと考えるのが至当であろう*。

 隠井郷周辺には、成沢(水戸市成沢町)に古くから鉱泉があり、三湯(水戸市三湯町)にも霊泉の伝説がある。おそらく八幡太郎由来の霊泉=鉱泉を領主である実氏が身延にいる身内に伝えていたのであろう。また、単純に湯治であれば甲斐にも、甲斐から近い伊豆や箱根にも湯治場があるが、日蓮を迫害した北条氏の本拠地であることから、静かな環境と波木井氏の庇護下を考えたというのが正しい見方と思われる。

 結局、日蓮は「ひたちのゆ」にたどりつくこと無く武蔵国池上郷で入滅しているが、隠井郷地頭の波木井実氏は、その後母の妙徳尼がなくなったこともあり、領地に常陸国初の法華道場を建てることとし、1293(永仁元)年、日蓮門下の中老の一人日高を招いて開山となし妙徳寺を建立した。

 波木井実氏の子孫は南北朝時代にいたって加倉井氏を名乗り、室町時代には水戸地域の支配者の江戸氏の重臣として、この地に加倉井館を構えて一円の支配を守り続けた。佐竹氏の支配となってもこの地に留まったが、徳川氏水戸藩成立後は、庄屋として地域に根付き江戸後期には、郷士身分を与えられている。

 幕末には一族から加倉井砂山を輩出した。砂山の私塾である日新塾は広域にその名を知られ、藤田東湖の子息で天狗党の頭領であった藤田小四郎、桜田門外の変に名を連ねる鯉渕要人・斎藤監物、水戸出身で唯一維新の功労者として爵位を受けた香川敬三、娘婿で第百生命など東京川崎財閥を築いた川崎八右衛門など多くの人材を輩出したことでも知られている。昭和の大横綱双葉山が日蓮宗に帰依するきっかけとなったのもまた、この妙徳寺との縁であったと寺伝は伝えている。また現代では、一族から読売ジャイアンツや近鉄バッファローズで1950年代に活躍した投手の加倉井実出しており、その墓所は本堂裏手にある。美術の最高峰・日本芸術院賞受賞者で日展常任理事の日本画家加倉井和夫もこの一族の出身である。

 地図で見ると、妙徳寺は桜川の支流にはさまれた丘陵上にあり、下野方面からの人の往来が古くからある場所である。このあたりの桜川は小川のごとき流れであるが、その一筋を生み出す「隠井」こそが、大河のごとき歴史のうねりを見つめ続けていたのである。

 

 

*南部光行(なんぶみつゆき)・・・ 1165~1236。甲斐源氏加賀美遠光の三男。源頼朝挙兵からつき従い、その功により甲斐国南部を与えられ南部氏を名乗る。奥州合戦に軍功あり、陸奥糠部郡を与えられる。奥州の南部氏の祖。

*波木井実長(はぎりさねなが)・・・1222~1297。鎌倉中期の武士。南部光行の三男。父から波木井郷の地頭職を割譲され、波木井を名乗る。「はぎり」は「はぎい」とも読む。

*「波木井殿御報」全文

畏み申し候。みちのほどべち事候はで、いけがみまでつきて候。みちの間、山と申し、かわと申し、そこばく大事にて候ひけるを、きうだちにす護せられまいらせ候ひて、難もなくこれまでつきて候事、をそれ入り候ながら悦び存じ候。さては、やがてかへりまいり候はんずる道にて候へども、所らうのみにて候へば、不ぢゃうなる事も候はんずらん。さりながらも日本国にそこばくもてあつかうて候みを、九年まで御きえ候ひぬる御心ざし申すばかりなく候へば、いづくにて死に候とも、はかをばみのぶさわにせさせ候べく候。又くりかげの御馬はあまりをもしろくをぼへ候程に、いつまでもうしなふまじく候。ひたちのゆへひかせ候はんと思ひ候が、もし人にもぞとられ候はん。又そのほかいたはしくをぼへば、ゆよりかへり候はんほど、かづさのもばら殿のもとにあづけをきたてまつるべく候に、しらぬとねりをつけて候ひては、をぼつかなくをぼへ候。まかりかへり候はんまで、此のとねりをつけをき候はんとぞんじ候。そのやうを御ぞんぢのために申し候。恐々謹言。 

*「ひたちのゆ」諸説・・・宮崎英修「「波木井殿御報」常陸の湯について」(立正大学仏教学会『大崎学報』125、1970)

*加倉井砂山(かくらいさざん)・・・1805~1855。水戸郊外成沢村の庄屋だったが、郷士身分を得ている。父が開いた私塾日新塾で20歳ごろから教育に携わる。日新塾は30年間に3000人もの人々が学んだとされていて、四書五経は言うに及ばず医・算・暦や西洋砲術や馬術・弓術も学んだ。当時では珍しく女子教育も行っていた。日新塾は近年まで建物が残っていたが、先年取り壊されてしまった。世界遺産で教育遺産としての指定を目指す折柄、再建保存を望む声がある。

 

【参考文献】

妙徳寺公式HPhttp://homepage1.nifty.com/kakurai/index2.htm

堀口眞一『日にあらたなり~加倉井砂山物語~』(侖書房、1997)

大野達之助『日蓮』(吉川弘文館・人物叢書、1985)

姉崎正治『法華経の行者日蓮』(講談社学術文庫、1983)

渡辺宝陽ほか編『日蓮聖人全集』新装版・第5巻(春秋社、2011)

『水戸市史』上巻(水戸市、1963)

『水戸概史』(水戸市、1999)

 

 


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