桜川のあゆみ 南北朝・室町期の桜川流域と権力

河和田城跡(現報仏寺)
河和田城跡(現報仏寺)

鎌倉時代に武士たちが在地領主として活躍し始めた桜川の流域ですが、南北朝時代から室町時代・戦国時代にかけてさまざまな変動が起こりました。

 

 鎌倉幕府が滅亡する前後、桜川中流下流域の水戸周辺から府中(石岡)までを支配していた大掾氏の大掾高幹は、当初鎌倉幕府方につき、幕府滅亡後のいわゆる中先代の乱*で北条家の遺児北条時行が破れてから、のちに足利尊氏方となったので、常陸北部に勢力を張るの源氏の佐竹氏にやや押され気味となった。そうした中で、大掾氏配下の鍛冶弾正貞国が建武3(1336)年に、桜川中流部に河和田館をつくって周辺の支配に乗り出した。このころから桜川や涸沼川の上流部は開発がすすみ「中妻三十三郷」と呼ばれるようになった。

 一方、桜川上流部は、前述のように平安時代末期に那珂郡がわかれて那珂西郡となっており、鎌倉時代にいたって源頼朝の有力御家人であった那珂実久*が、頼朝に従わなかった佐竹氏を攻略した功により、那珂東・那珂西両郡を与えられ惣地頭職を得て定着。那珂東郡はのちに北条氏一族に奪われたものの、那珂氏の一族は那珂西郡内各郷の地頭として広く定着をしていた。しかし、鎌倉幕府の滅亡そして南北朝時代の突入で、那珂氏は当初は南朝方に属し、北朝方の佐竹氏におされ衰退していたが、建武3(1336)年に楠木正成の弟楠木正家が入った瓜連城の合戦にいたって、那珂氏はほぼ全滅した。唯一人生き延びた那珂通泰は再起したのち足利尊氏に認められて、今度は北朝につき、旧領のうち那珂西郡江戸郷を与えられ、その子那珂通高の代から江戸氏を名乗るようになった。

 江戸通高は北朝方の佐竹氏と接近、常陸守護となった佐竹義篤の娘を娶り、佐竹氏の一族としての扱いをうけ南朝方の勢力掃討に奔走した。嘉慶2(1388)年、南朝側との激戦となった難台城の戦いで江戸通高は戦死したものの、その功が認められ、道高の子の江戸通景は、恩賞として鎌倉公方足利氏満より河(川)和田、鯉渕、赤尾関といった桜川上流部を含む地域を与えられた。通景は本拠地を江戸郷から河和田へと移し、在地領主の加倉井氏を取りこんで那珂西郡南部つまり桜川上流部や涸沼川上流部の地域を支配していくことになった。この時河和田城主であった鍛冶氏は追放された。

 応永14(1407)年、佐竹氏が家督をめぐって「佐竹の乱」*をおこした。この内乱は約1世紀も続いたが、原因は佐竹氏の跡目争いに鎌倉公方足利持氏が介入したことによる。応永23(1416)年、関東全域をまきこむ上杉禅秀の乱が発生すると、関東の武士たちは上杉禅秀方と鎌倉公方持氏方に分かれて争うことになったが、桜川上流部を支配する江戸氏は鎌倉方に、桜川下流部を支配する大掾氏は禅秀方にそれぞれついた。乱は鎌倉方の勝利におわり、大掾氏は一部の所領を没収されたらしく衰退していくことになった。

 応永33(1426)年、江戸通房は、大掾氏の当主大掾満幹が一族とともに祭礼のため水戸城を留守にした機を見て、水戸城を急襲することに成功。水戸城を占拠し、大掾氏は水戸の地に二度ともどることはできなかった。水戸周辺の在地領主は江戸氏のもとに服属し、大掾一族といわれる桜川沿い箕河村の在地領主箕川氏も江戸氏の配下となった。つまりここに桜川の上流から下流に至る地域全体を支配する領主が初めて生まれたのである。

 江戸氏は、水戸城に入ってここを本拠として勢力を拡大させていくが、時に佐竹氏の内紛に乗じて領地を拡大させたり、鹿島郡に進出したりと、当初臣従していた佐竹氏から独立した存在になった。そして鹿島郡には春秋氏という在地領主がいたが、この春秋氏は江戸氏が本拠を水戸城に移したあと、河和田城に入り江戸氏の重臣として仕えている。江戸氏と佐竹氏は時に一族同位の扱い、時に敵対を繰り返していたが、戦国時代を通じて桜川一帯が佐竹氏の手に落ちることはなかった。しかし、戦国末期江戸氏は内紛を起こして弱体化した。そのような折、江戸氏の命運を絶つ大きなうねりがやってきた。

 それは豊臣秀吉による天下統一事業の仕上げ、天正18(1590)年の小田原攻めである。内紛状態にあった江戸氏は、当主の江戸重通が秀吉の小田原参陣命令に応えられず、戦後の領地安堵を保証されなかった。そして秀吉から佐竹義宣に対して所領公認があり、そのなかに江戸氏の所領も含まれていた。同年12月、これを根拠に佐竹は軍勢を発して水戸城を攻略。江戸重通は親族の結城氏を頼って落ちのびていった。桜川一帯を含めた地域は佐竹氏の支配下となったのである。

 

*中先代の乱…この乱は1333年に滅亡した鎌倉幕府の14代執権北条高時の遺児であ

 る北条時行が、1335年に信濃から挙兵し一時期鎌倉を占拠したものの撃退された

 もの。

*那珂実久…大中臣姓の一族らしいが、詳しい出自は不明。鎌倉幕府の公式記録『吾

 妻鏡』には那珂三左衛門尉頼朝の上洛に供奉し長く側近くで警護にあたっていた記

 述がある。京都守護の役割を担っていたとの説もある。

*鯉渕・赤尾関…茨城県水戸市(旧内原地区)。涸沼川上流域。

*上杉禅秀の乱…関東管領上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方足利持氏に解任されたことを

 原因として反乱を起こした事件で、持氏は追い詰められ駿河に逃れるが、当時の幕

 府の援軍に依り禅秀方が敗れた事件。関東はこれにより分断された。

*佐竹の乱…応永14(1410)年佐竹氏の当主佐竹義盛が他界した後、後継がなかっ

 たため鎌倉公方足利持氏が関東管領上杉憲定の子龍保丸のちの佐竹義人に佐竹氏を

 相続させたことを不満に思った、佐竹一族の山入氏などが反発し約1世紀にわたっ

 て争われた佐竹一族の内紛。

 

参考文献

・『水戸市史』上巻(水戸市、1963)

・『水戸概史』(水戸市、1999)

・『茨城県史』中世編(茨城県、1986)

・佐々木倫朗『戦国期権力 佐竹氏の研究』(思文閣、2011)

・河和田の歴史と水戸 http://www1.plala.or.jp/papa/enkaku.html

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