桜川のあゆみ 佐竹時代から水戸藩成立へ

水戸城大手橋に建つ頼房公像
水戸城大手橋に建つ頼房公像

豊臣秀吉の小田原攻めによる天下統一達成で佐竹氏の常陸支配が完成し、桜川流域も佐竹氏の支配下に入りましたが、その後桜川流域はどうなったのでしょうか。

 

天正19(1591)年、佐竹義宣はそれまで拠点としてきた太田城を出て水戸城に移った。翌年には朝鮮出兵を命じられて渡海した義宣であったが、文禄2(1593)年には本格的な水戸城の普請と城下町整備をはじめた。佐竹時代に桜川の下流にあたる現在の水戸市下市地域はまだ城下町として整備されておらず、桜川(当時の箕川)は千波湖に直接流入し、千波湖から那珂川へ合流する川筋は、現在の水戸市城東方面へ北上して合流するルートであったらしく、低湿地であった下市一帯はたびたび増水による氾濫を繰り返していたようである。また、箕川の呼称は千波湖までであり、千波湖以降の川を何と呼んでいたかは定かではない。これは河道改修が繰り返された江戸時代まで続く。

 さて、佐竹が常陸の一円支配をしたのはわずか13年間であったが、その間、桜川の流域は、当主である佐竹義宣の直轄地つまり蔵入地であった(常陸国内には一族の佐竹義久が豊臣秀吉から直接支配を認められた領地と豊臣家の蔵入地となった場所が混在していた)。前領主の江戸氏が支配していた那珂川・桜川沿いほとんどが蔵入地となったのである。この蔵入地は、それぞれの場所が家臣に預けられた預かり地となっていたが、文禄5(1596)年の「御蔵江納帳」には、上流部の池野辺が「川井大膳」、有賀が「川井備前」、見川が「とうけん」などの名前見える。各地の城館に根付いていた領主たちの多くは駆逐されたと見える。河和田や見川にいた江戸氏の重臣である春秋氏などは、江戸氏が親族の結城氏へ落ちのびたことに伴い、主家と運命を共にしたため、支配者不在の地に佐竹の家臣がすんなり入ったのではないだろうか。しかし、加倉井氏など、そのまま在地となった城館主たちもいたが、城館を譲渡したり破却したりせざるを得なかった。

 こうして佐竹氏の支配がはじまったが、1600年関ヶ原の戦いにおいて、佐竹は旗幟を鮮明にしなかったものの、戦後すぐの改易・転封にはかからなかった。ところが慶長7(1602)年、徳川家康は突然、佐竹義宣に出羽への国替を命じた。これにより佐竹氏の家臣は苦渋の選択を迫られた。出羽に付き従っていくか、常陸に残るか。兄が出羽、弟が常陸など家族が別離する選択をしたものもあった。

 佐竹国替後は直ちに徳川家康の五男・武田信吉*が15万石で入ったが、間もなく病没し、翌慶長8(1603)年、家康の十男徳川頼宣*が、そして頼宣の駿河移転に伴い、慶長14(1609)年12月に、十一男徳川頼房が25万石で水戸に封じられた(元和8年には加増され28万石になった)。信吉は病弱、頼宣も幼少で一度も領地に赴くことがなく、徳川家水戸藩の祖となった頼房もはじめて領地に足を踏み入れたのは元和5(1619)年、17歳になってからのことであった。では1602年から1619年の18年間水戸藩は家康の命を受けた徳川家譜代の臣たちにより行われていたのである。

 特にその中で在地(村々)支配を担当したのが伊奈備前守忠次*と芦澤伊賀守信重らであった。伊奈は関東総代官(関東郡代)として、関東一円にその実績を残しているが、この伊奈忠次らの指示のもと、頼房の水戸移封の翌年慶長15(1610)年には、城下町形成の土台ともなる、千波湖の堤による締切とその放水路の新設がはじまった。千波湖はそれまで下流側に向かっては、しっかりとした河川としての流水経路がなく悪い言葉でいえば「垂れ流し」状態であった。このとき開削された放水路の一つが現在も水戸の代表的景観であり、用水として現在も機能している備前堀である。当時の備前堀は千波湖の排水路として考えられており、次第に灌漑目的で使用されるようになったが、当時のこのあたりは亀ヶ池、鏡ヶ池、赤沼の小さい沼が点在し、度々千波湖が氾濫する低湿地であり、ここに水戸城外郭をつくり城下町を形成するには、千波湖からの流路を兼ねた堀を排水路とすることが重要であった。備前堀は現在水戸駅南を流れる桜川下流の流路と同じ目的をもった、いわば桜川下流の役割をになっていたと考えてよいだろう。一方、水戸城の外堀を形成する目的で千波湖から現在の城東地区を北上して那珂川に注ぐ流路も形成された。江戸時代を通じてしばしばその流路は変更されたが、当時はその川はまだ「桜川」とは呼ばれることはなく「馬場川」などとも呼ばれていた。こうして排水が出来、千波湖が仕切られたことにより、下市地区への城下町形成が可能になったのである。低湿地や沼には、当時高台となっていた旧武熊城・東台の地から土砂が運ばれ埋め立てに使われ武家地・町人地が新たにつくられた。ただ、江戸時代を通じて何度も洪水に悩まされ、流路変更や堤のつくり替えは絶えずおこなわれていた。

 

*佐竹義宣…1570-1633。豊臣秀吉により常陸54万石を認められた大名。小田原攻め以前は北方で伊達政宗と対峙し、それ以前は小田原の後北条氏との衝突が絶えなかったが、越後の上杉氏と結び、関ヶ原の戦いに至っても内通していた。また、石田三成と昵懇であったため、国替を命じられたといわれている。

*水戸藩の領域…水戸藩の領域は水戸以北の現在の茨城県北部および水戸から霞ヶ浦に至る陸路上の現茨城町・小美玉市付近、さらに水運の要衝であった潮来市付近、栃木県馬頭町付近がそれにあたる。

*武田信吉…1588-1603。徳川家康の五男。母は甲斐武田氏の家臣秋山氏の娘。生来病弱で、妻はあったが、子がなくその後断絶した。

*徳川頼宣…1602-1671。徳川家康の十男。母は頼房と同じお万の方。生まれた翌年に水戸に領地を与えられたが、駿府藩主を経て、1619年、紀伊和歌山54万石の藩主となった。

*徳川頼房…1603-1661。徳川家康の十一男。母はお万の方(安房の正木氏の娘)幼少期は、家康の膝下の駿府で育ち、家康没後に江戸に在住。年齢の近いこともあり3代将軍家光と親しく折にふれ相談に応じていて、江戸定府を命じられた。極官は正三位権中納言。おくり名は威公。在世中11度水戸に入り治政に指示を与えている。

*伊奈備前守忠次…1550-1610。三河以来の徳川家の譜代の家臣。家康の江戸入り以後、関東代官頭の一人として民政に力をふるい、関東各地に堤や堀などを開削。至る場所に「備前…」と名のつく場所を今に残す。その子息忠治も治水等に多くの足跡を残した。

 

参考文献

・『水戸市史』上巻(1963)中巻1(1968)

・『水戸概史』(水戸市、1999)

・『茨城県史』中世編(1986)近世編(1985)

・『水戸の橋ものがたり』(水戸まちづくりの会、2011)

・大槻功『都市の中の湖』(文眞堂、2001)

・高倉胤明「水府地理温故録」(『茨城県史料・近世地誌編』、茨城県、1968)

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