光圀公と桜 小石川邸・桜の馬場

小石川後楽園の枝垂桜
小石川後楽園の枝垂桜

今回からはいよいよ「桜川」の名付け親である徳川光圀公と桜にまつわるお話を綴ってまいります。梅のイメージが強い水戸と光圀公ですが、実は桜とも縁が深いのです。黄門様、義公との呼ばれ尊敬される光圀公ですが、本文中では他の人名同様に表記してまいります。

 

 2代水戸藩主徳川光圀。言わずと知れた水戸の誇る名君である。その評伝は数多あるので、その生い立ちから詳しく述べることはここではしないが、いかに桜との縁があったのか、というエピソードを紹介したい。

 光圀はゆえあって、寛永5(1628)年、水戸城下柵町の三木之次邸で誕生、同様にゆえあって他所で育てられた同母兄松平頼重*を差し置いて水戸家の世継ぎとなったのが、寛永10(1633)年のことである。この年に光圀(当時は長松又は千代松の幼名で呼ばれていた)は江戸小石川の水戸藩上屋敷*に上がり、父の膝下で育てられることになった。小石川上屋敷は、光圀誕生の翌年、寛永6(1629)年、初代藩主である父・頼房が幕府から拝領したものであるが、広大な上屋敷内には、徐々に諸施設が整備されていった。その一つが「桜の馬場」である。

 光圀の没した翌年の元禄14(1701)年、三木之幹らが編纂した光圀の逸話集『桃源遺事』には以下のようなエピソードが残されている。

   同年(寛永十一年)小石川御後園の側、桜ノ馬場と申所にて頼房卿斬首者仰付

  られ、其首を其まゝさし置せ給ひ、夜に入て西山公(光圀)の御心をたまし給は

  んかため彼首を持参被成候へと仰られ候。右桜ノ馬場と申は御屋形より西の方に

  四町はかり有、道細く水流れ木立しけりて、昼も女童なとハ中々至り難き所なれ

  は…

小石川屋敷内の桜ノ馬場にて手討にした家臣の首を、あろうことか父頼房は、度胸試し(もちろん後継ぎとしての適性を見抜く目的もあったのであろう)のために、7歳の光圀に持ってこいとの難題を突き付けた。藩邸内にあるとはいえ、水戸藩上屋敷小石川邸は約10万坪という江戸有数の広さを持つ屋敷。10万坪といえば、現在小石川上屋敷の跡に立つ東京ドームに例えると約7個分ということになる。屋形つまり常の住まいである御殿からは、馬場までは4町(430M)も離れていて昼なお暗い木立の中を越えていかねばならない。それを長松(千代松)とよばれていた幼き光圀は、難なくやってのけた。父の与えた試練のはじまりに桜の馬場があったのである。

 8歳の頃になると、この桜の馬場においての馬術訓練にはげむようになった。侍医だった井上玄桐*の『玄桐筆記』には以下のようなエピソードが残されている。

   桜馬場にて常々御馬御稽古被遊。…馬場の内に土竜の穴有けるに蹄をふミ入

  て、御馬ハもんとりを切て倒れぬあわや御あやまちしけんとて、人々馳参見奉る

  に、さりけもなくておはす。…此外危きめにも度々合給ひ、つよく御修練有しほ

  とに、究竟の御上手にて、色々の曲馬をも能被召…

 土竜穴につまづいて人馬もろともに大転倒し周囲が心配するものの、何も無かったような涼しい顔。やがて「曲馬」つまり曲乗りもこなすほどの「究竟の御上手」といわれるほど、桜の馬場での稽古に没頭していた少年長松(千代松)の姿、そしてその背景には桜並木が続いている。そんな桜の馬場の光景が光圀にとっても原風景の一つとなったのではあるまいか。

 さて、その桜の馬場とはどこにあったのだろうか。桜の馬場は屋形=御殿より西に四町=430Mとあるが、光圀の幼少期はまだ屋敷の造成途上にあったが、父頼房によって招かれた京の庭師・徳大寺左兵衛の手になるの庭が出来る前のころであったろうか。御殿が現在の東京ドームあたりであるとすると、西に約400Mは、後楽園の西門の周辺ということになる。長さは「百四十間」ということなので南面の東西に250Mもの馬場が広がっていたらしい。が、比較的早い時期に描かれたと推定されている明治大学所蔵の「水戸様小石川御屋敷庭之図」には庭の池の南面に桜の馬場が描かれている。この馬場の桜は元禄15(1702)年に将軍綱吉の生母桂昌院が園の鑑賞に来たとき、老齢の桂昌院を慮って、後楽園を大改造した際に伐採されてしまったらしく、元文元(1736)年に書かれた「後楽紀事」には桜の馬場には「両側に桜あまた植えたるなり。いずれも大木なり。この桜をも伐りたれば、わずかに残れり」という状況で、光圀がみた桜の景色は残念ながら、光圀の没後まもなく消えてしまったようだ。現在の小石川後楽園西門を入ってすぐのところに「馬場桜」の名をもつ、その後継樹とされる樹齢60年の枝垂桜がある。小石川後楽園の桜については、その他のストーリーもあるため別項での詳述することにする。

 なお、桜の馬場にまつわる2つのエピソードは、近年では冲方丁氏の小説『光圀伝』にも登場している。

 

*三木之次…1575~1646。通称仁兵衛。初代水戸藩主頼房の乳母の姉婿という立場で、家康の命により1603年より頼房に仕えることとなり、水戸藩成立後は重臣として水戸藩を支えた。1622年、頼房の側室となる久昌院が懐妊すると、頼房公は諸般の事情により堕胎を命じたが、之次は頼房の養母英勝院にはかって、江戸麹町の自宅で出産させた。この時に生まれたのが長子の竹丸、のちの松平頼重である。また、1628年に再び久昌院が懐妊すると、再度の堕胎命令に、今度は水戸の自宅に匿った。この時生まれたのが光圀であった。三木は没後水戸郊外見川の妙雲寺に埋葬されたが、現代になって水戸の常磐神社(光圀・斉昭両公が祭神)に境内に「三木神社」が建てられ、妻の武佐とともに祀られている。

*松平頼重…1622~1695。初代水戸藩主徳川頼房の長子であったが、京の大納言滋野井季吉のもとで育てられ、10歳の時、小石川の藩邸に召しだされるも、疱瘡にかかっていて父への目通りがかなわず、その間、同母弟の光圀が世継と決定してしまった。下館5万石のちに讃岐高松12万石、従四位下右京大夫と御三家の連枝としては破格の厚遇を受けた。

*小石川邸…約10万坪の敷地を誇る水戸藩上屋敷は小石川にあったが、『水戸紀年』によれば最初の水戸藩上屋敷は松原小路(現北の丸日本武道館周辺か)に元和6(1616)年に建てられたが、寛永6(1629)年に将軍家光から小石川の地を拝領し、松原小路の屋敷は返したため、小石川は上屋敷となった。小石川藩邸は家康江戸入府当時には沼であり、城下の上水の確保場所だったが、人口増加で取水量が増え、沼の水位が低下、また水質も悪化したため、埋め立てられて屋敷地とされたものであった。また、当初は中屋敷として使用されていた。

*井上玄桐…?~1702。儒者でもあるが、天和2年より光圀の侍医となる。光圀存命中は光圀の代筆を務めるなどした。没後は職を辞して郷里の京都に戻り『玄桐筆記』を書き残した。『玄桐筆記』は晩年もっとも近侍した井上が直接、光圀に聞いた直話や側近・重臣たちに聞きとった話から構成されており、光圀逝去の直後に書き残されているため、光圀の言行録の中で最も重要なものと位置付けられている。

*往時の桜の馬場については、「開講・彰考館プロジェクト」における史料調査活用事業の成果として徳川ミュージアム収蔵庫から2013年に発見された享保年間の小石川後楽園についての絵巻物も含めて残された絵図を検討することで、小石川邸と桜の関係について今後研究が進むものと思われる。

 

≪参考文献≫

・井上玄桐『玄桐筆記』(『徳川光圀関係資料・水戸義公伝記逸話集』所収   

 1978、常磐神社・水戸史学会編、吉川弘文館)

・三木之幹他『桃源遺事』(同上)

・『水戸紀年』(『茨城県史料 近世政治編Ⅰ』、1970、茨城県)所収

・『水戸市史』中巻(一)(二)(四)(1968、1969、1982、水戸市)

・鈴木暎一『人物叢書・徳川光圀』(2006、吉川弘文館)

・名越時正『水戸光圀』(1972、日本教文社)

・五島聖子『小石川後楽園の作庭と利用に見る哲学』(1996、明倫館)

・青木宏一郎「江戸のオープンガーデン」(東京都公園協会広報誌『緑と水のひろば』第67号、2012)

 

 

 

 

 

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