光圀公と桜 和歌と桜と(1)

小石川後楽園の桜
小石川後楽園の桜

長松君とよばれた幼いころの光圀公、成長に従いとんでもない「かぶき者」になり周囲を悩ませることになりました。しかし一大転機が訪れます。桜と向き合ったのもそれ以降のことになります。

 

 実兄を差し置いて水戸家の嗣子になったこと、世継ぎの資質があるかを試すように課される父からの試練。普段から世継ぎとして施される厳しい教育。12~3歳から17歳にかけての時期に心にわだかまりをかかえた光圀は、次第に反発するようになり、屋敷を抜け出しては、かぶき者、蓮葉者(はすはもの)と呼ばれる仲間とつるんで遊び、朝帰りすることもあり、罪科もないものを斬ってしまうなど、放埓な振る舞いが目立った。

 しかし、17~18歳の時に転機が訪れる。『史記』の「伯夷伝」との出会いである。兄弟間の王位の譲り合いの話に自分の置かれた状況を重ね合わせ、腑に落ちた光圀の変わりぶりはすごかった。その一途なエネルギーは「学問」に向かった。その「学問」とは儒学そして修史(大日本史編纂)の道へ帰結してゆくのだが、もう一つの柱となったのが「詩歌」の道である。18歳の時には当代の歌人の秀歌を選した「笑々和歌集」一巻をまとめており、19歳からは、歌道宗匠の家である下冷泉家の当主・冷泉為景との交流を結び、若いころには大いに作歌にはげんだ。また、漢詩文創作についての情熱も並々ならぬものがあり、20歳前後からさかんに詩作を行い、23歳のころからは、幕府の侍講で江戸幕府の基礎固めに大いに力をふるった林家の祖・林羅山に漢詩の添削指導を受けるようになった。光圀がどれほど桜を愛していたのかを知る手がかりの一つはこの「詩歌」に残されているのではないかと思う。

 光圀の和歌は『常山詠草』漢詩文は『常山文集』に収められているが、和歌は全1,005首、漢詩文は全1,986首が伝わっている。国文学研究者によると光圀の和歌は「稚拙な印象をもたらす」ものの「むしろ細かなこだわりを超えた、おおような古歌との戯れあるいは歌的な表現をすることへの無垢な楽しみのあらわれ」*と評されているようだが、筆者は門外漢のため、その解釈について詳しく論じる立場にはないが、歌の周辺状況を追いながら桜と詩歌について少しふれてみたい。

 まず和歌に注目してみよう。和歌は全1005首中、春夏秋冬をうたったものが586首、そのなかで春の歌は259首、そのなかでも桜についてうたったものは114首、と桜の歌が特に多いのがこの数字を見ただけでもわかる。さて、桜の和歌の1首目は『常山詠草』巻之一におさめられた「初櫻」と題された歌である。

   待ちつけてけふ咲初(さきそむ)る櫻はななほ春風もこころしてふけ(68)

     ※( )の数字は『常山詠草』中につけられた通し番号。

 待ち迎えてようやく今日咲いてくれた櫻の花なのだから、春風よこころしてふいておくれよ、といったところだろうか。春を待ち、何よりも桜を待った光圀の心情があらわれている。その他紹介すれば数限りないが、代表的なものを数首あげてみよう。

 まず、藩主として常住した小石川の水戸藩上屋敷で詠んだと思われる歌から。先述した通り、小石川邸には現存する後楽園があり、日本を代表する大名庭園であり築山池泉式庭園の傑作として知られる。その池のほとりに植えた桜を光圀は日頃から愛でていたようである。

   つくつくとなかめもあかす我やとの一木の春の花のさかりは(75)

 この歌には「池邊櫻」との題があり、「我やと」とついているところから後楽園の池端に咲く桜のことと思われる。飽かず眺める桜、桜好きの光圀の心情を素直にあらわしている。先に述べた桜の馬場の桜とともに後楽園内にも桜の木は多く植えられており、年代不明だが江戸時代の絵図である『水戸様江戸御屋敷御庭ノ図』(彰考館蔵)には、現在の後楽園の桜がある場所とほぼ同じ場所に桜と思われる木が描かれているし、後述するが、朱舜水が寛文16(1669)年にしたためた『遊後楽園賦並序』のなかにも光圀が史局勤務の者たちと後楽園で桜を眺めたことが記されている。光圀におって後楽園の桜は最も愛すべき慣れ親しんだ我が家の桜であった。

 一方、水戸藩中屋敷通称駒込邸は、元和8(1623)年に下屋敷として拝領、明暦3(1657)年、大火により小石川邸焼失で一時移転したり、史局(大日本史編纂の拠点)を移したり、先述の明から亡命した学者朱舜水に対して邸内に住居を与えたりした。光圀の生涯の中でも重要な場所の一つだが、ここでも光圀は数首の桜の歌を残している。題は「駒込の山荘の花のさかりなる比(ころ)人のとふらひ(訪ひ)けるに」とついた一首がある。

   たつねくる人めまれなる山すみも花ゆへにこそけふはとはるれ(103)  

 駒込邸は現在の東京大学弥生キャンパスから浅野キャンパスにかけての地域にあたり、加賀藩前田家の屋敷に隣接していた場所にあった。小石川住まいに慣れた水戸家の子女たちは、この駒込の「山荘」を嫌ったらしいが、この頃は屋敷地の一部に鬱蒼たる林野の景観を湛えていたのだろうか、その「山」の普段訪ね来る人も稀な場所に咲く桜(おそらく山桜であろう)を眺める光圀の姿がここにある。

 光圀は、江戸の他の場所の桜の景色も当然楽しんでいるが、上野谷中近辺の桜の花も楽しんだようで、絵師狩野興雲*の「時なれや爰(ここ)も盛のさくら花にし山様に咲匂ふらむ」の返歌としての一首が残る。

   白たへの花見てさけをのむ人やうかれ心のおこる雲かな(補11)

 「にし山」つまり西山隠士=光圀への、お追従ともおもわれる歌に、酒を呑んでうかれるなよ「興る雲」=興雲と戯れているのであろう。興雲は水戸家御用絵師と想像される。なお、上野忍ヶ岡は向ヶ岡とよばれる台地上の駒込邸から不忍池をはさんで向かい側にあたり、この頃既に花の名所であったようである。駒込邸からも上野の桜は遠望できたことであろう。

 水戸家は、浅草に蔵屋敷を拝領しており、当初浜町屋敷とよばれる別邸の一つとなっていたが、光圀隠居後の元禄6(1693)年に、本所小梅屋敷と交換し下屋敷としている。小梅屋敷は花の名所隅田川の中心ともいえる場所にあったが、光圀存命中は、すでに4代将軍家綱が植樹したといわれているが、まだ桜の名所とは言い難く*、光圀がこの小梅邸あるいは隅田川沿いの桜を歌ったものは伝わっていない。小梅邸と桜の関わりは後述することとする。

 次回は水戸藩の領内で詠まれた桜の和歌について追ってみることにする。

 

*冷泉為景…れいぜいためかげ。1612~1652。徳川家康の侍講だった藤原惺窩の長男で、勅命により叔父にあたる冷泉為将の後、歌学の家である下冷泉家を継ぎ、正四位下の地位にのぼった。冷泉家は新古今和歌集の編者として知られる藤原定家の末裔であり、上冷泉家・下冷泉家に分かれて歌道を家業として代々継承している。

*林羅山…はやしらざん、1583~1657。諱は信勝、出家後は道春。儒学者。徳川家康に仕官を求められた藤原惺窩が辞退した代わりに推挙されたその弟子。家康から家綱まで4代の将軍に仕え、江戸幕府の基礎固めに貢献したことで知られている。3代将軍家光からは上野忍岡に屋敷を拝領し私塾や孔子廟をかまえた。羅山の子孫は代々江戸幕府の教学の責任者となり、3代目鳳岡からは大学頭を称することとなった。

*林達也駒沢大学教授は、光圀にとっては歌の稚拙さなどは二の次で、光圀の幅広い文化への関わりの一つとして和歌があったと考えておいた方が良いと論じている。その技巧的なレベル等については本稿では論じる立場にない。

*狩野興雲…詳伝はないが、狩野派の中枢で活躍した狩野興以の子で水戸徳川家御用絵師となった狩野興也の跡を襲った絵師であったと想像される。大日本史編纂記録の往復書簡には光圀からの書状の宛名人にその名が出ていることから、その存在は確認できる。

*隅田川の桜については稿を改めて書くつもりであるが、隅田公園に建つ[墨堤植桜之碑]によれば、4代将軍家綱の時期に現在の白髭公園付近にあったと思われる隅田川御殿が構えられた際に、隅田川沿いに桜が植えられたのが始まりであるといい、常州桜川から桜が移植されたと記されている。のちに述べる謡曲『桜川』の地がいかに桜の名所づくりに利用されてきたのかを物語る逸話である。

 

≪参考文献≫

・『常山詠草』(徳川圀順編『水戸義公全集 中』1970、角川書店)

・『水戸紀年』(『茨城県史料 近世政治編Ⅰ』1970、茨城県)

・大森林造『義公の和歌を尋ねて』(1988、筑波書林ふるさと文庫)

・五島聖子『小石川後楽園の作庭と利用にみる哲学』(1996、明倫館)

・原 祐一「水戸藩駒込邸の研究 藩邸内外の景観と造園の検討」(2010、『東京大学史紀要』28号)

・林 達也『江戸時代の和歌を読む』(2007、原人舎)

・鈴木暎一『徳川光圀』(2006、吉川弘文館・人物叢書)

・石原道博『朱舜水』(1961、吉川弘文館・人物叢書)

・吉川 需・高橋康夫『小石川後楽園』(1981、東京公園文庫28・財団法人東京都公園協会)

 

 

 

 

 

 

 

 

6/8(土)講演会&総会 案内はイベントページへ

水戸市民会館「水戸キャンパス100」5/15・6/19の講演案内→イベントページへ

協賛企業