光圀公と桜 和歌と桜と(2)

常陸太田の旌桜寺。奥に瑞龍山を望む
常陸太田の旌桜寺。奥に瑞龍山を望む

光圀公は水戸藩領内でも数多くの和歌を詠まれました。今回は水戸(広い意味で水戸藩領内)と桜の和歌について御紹介したいと思います。

 

6歳にして世継ぎとして水戸から江戸へのぼってから、一度も水戸に戻る機会のなかった光圀であるが、万治元(1658)年、歌や古典の道を共に楽しんだ正室尋子が、若くして亡くなり水戸で葬られる*と、翌年の万治2(1659)年には、将軍からゆるされて水戸に戻り、尋子の墓参を果たすとともに、約一年間水戸に留まっている。光圀31歳の時だった。さらに寛文元(1661)年、父の初代藩主頼房逝去に伴い一旦葬儀や相続にともなう処置のため、就藩。これを皮切りに藩主在任中は、1663、1665、1667,1670,1677、1679、1681、1683、1687、1689と頻繁に就藩している。一年滞在して江戸にもどるパターンが多かったが、参勤交代のない水戸藩の場合、藩主が領地へ戻る際、一々将軍に許可を求めなければならなかった。それでも幼少期を過ごした水戸に愛着がある光圀は、就藩中、領内各地をくまなく見て回った。元禄3(1690)年に隠居したのちは、よく知られているように、太田の西山荘に居を定めて時折出府するほかは亡くなるまでの十年間専ら領内を歩いている。

 光圀は領内の美観を和歌や漢詩として数多く残したが、桜を詠んだものはやはり多い。ここでは、そのいくつかを紹介しよう。逝去後間もなくまとめられた『桃源遺事』に以下のように書かれている。

   西山公御風雅ナル御事も今の世には稀なるへきか。その片端を申さは、或年水

  戸城より南に當りて、小幡といふ所の往還の傍に、類なき櫻有、一とせ花の比

  (ころ)春雨の晴間もなくふりける日、この桜の事を覚し召出され、雨中の花一

  しほにこそとて、御笠を召れ、遙々と彼木の下へ至り給ひ、宴を披き、詩を吟

  し、歌を詠し、終日御詠候…

 水戸城下から南の茨城郡小幡にある名木と評判の「千貫櫻」をみたいと思いたち、雨中をおして、駕篭もつかわず西山荘から38キロもの道のりを向かい、笠をさしながら櫻の下で宴をはり、詩歌を作る。「西山公(光圀)」の風雅が「今の世」に稀であるというより、その桜好きぶりが尋常ならざるものにも思えるエピソードである。この時の歌が

   春風も心してふけちるはうしさかぬはつらし花の木の本(699)

 という一首である。桜の盛りの一瞬の美しさを見逃したくない光圀の心境は、老境に入って自身の残された時間と向かい合う瞬間でもあった。

 光圀が桜を追い求めた場所はいくつもあるが、特に頻繁であったのは領内においては2か所ある。その一つは大洗にある岩船山願入寺*であった。この寺は延宝年間に光圀の手によって大洗の地に移転したが、光圀は当時の住持の娘を養女として、京都東本願寺から養子をとって跡を継がせた。それゆえに縁深き寺であり、しばしば訪れている。

   岩ふねをととめても見よかのきしに寄するや春の花の白波(101)

   ちるをうしと思ひなわてそ是もまた折にあひたる花の杯(724)

 ここでも酒宴を催して花と酒を大いに楽しんでいる。また、願入寺訪問の途中で立ち寄った桜の美しさに、足を止め俄かに宴を催して詩歌を詠んでおり、その時につくった歌として

   ゆくさきもいそかぬ旅のこころからけふもさくらの陰にくらさむ(69)

という一首が残されている。どうやらこの時、この桜の場所の近隣に住む農民を詠んで桜のもとでの酒宴を開いたようである。隠居暮らしの気楽さともいえようが、“漫遊する黄門さま”のイメージにも重なる光景だ。

 もう一カ所頻繁に訪れた花の名所は、隠居所西山荘からも近い常陸太田の旌櫻寺であった。

   年毎に見れともあかぬ心よりなほめつらしき花の面影(693)

   さほ姫の心や花にこもりくのはつせのやまをこゝにうつして(713)

   白雲をわけつつ行は山寺の庭にたまゝく花のした風(722)

 源頼義・義家父子が前九年合戦の帰途にこの地に立ち寄った際、旗竿につかっていた桜の木を試みに土にさしたところ、根付いて花を咲かせたという伝説のある「旗桜」があり、その桜の見事さに、この地に寺を建てた佐竹義篤*が旗=旌の桜の寺と名付けたといわれ、廃寺になっていたものを初代水戸藩主頼房が再建した。713の歌のさほ姫とは佐保姫のことで、姫は花の化身といわれる。西山荘からほど近いこの寺の桜は、小石川や駒込以来、桜を愛し続けた光圀がその生涯の最後に愛した桜といってよいだろう。

 

次回は引き続き水戸城下の桜について述べてまいります。

 

*近衛尋子…このえちかこ。1638~1659.通称泰姫(たいひめ)、光圀の正室。後陽成天皇の第四皇子、関白近衛信尋の娘。尋子は摂関家の出らしく古典の教養を身につけていたといわれる。諡号は哀文夫人。

*岩船山願入寺…もともとは親鸞の孫、如信によって陸奥国大網(古殿町)に建てられた浄土真宗の寺院の大網御坊がはじまりといわれ、2代あとの空如の時願入寺という名称になった由緒ある寺でありながら那珂郡大根田村、菅谷村と所在が変わり江戸時代には常陸太田の久米に移動していた。由緒がありながら寺勢が衰えているのを知った光圀は、寺を大洗の祝町に移して寺領300石を寄進、15世如高の娘を光圀の養女格として、東本願寺琢如の子如晴を養子を迎えた。その後、寺は江戸時代を通じて水戸藩の保護を受け隆盛となった。9代藩主斉昭の時代には水戸八景の巌舟の夕照としても選定され、景観のすぐれた場所として多くの藩内外の人士が通う場所となっていた。現在は単立の原始真宗を名乗っている。

*旌櫻寺…八幡太郎といわれた源義家が康平6(1063)年、前九年の役の帰途に、この地に立ち寄り、桜の木で造られた旗竿をこの地に立てたところ、その木が根付いたとの伝説があり、康安年間(南北朝時代)に、同地を支配していた佐竹義篤が、大沢山瑞竜院をこの地に立てたところ、桜が見事だったので旌桜寺の名がついた。1651年に初代水戸藩主頼房が再建し臨済宗の寺院としたが、光圀の代に至って、山号を改め白雲山旌桜寺としたという。光圀はその由来を知り、源頼義・義家父子の祠堂を建てた。現在は後継の祠堂と桜の木だけを残し廃寺となっている。

*佐竹義篤…さたけよしあつ。1311~1362。鎌倉時代末期から南北朝期の佐竹氏の9代目当主。南北朝分裂後、足利尊氏に味方し、常陸守護に任じられている。常陸国内の北朝勢力の中心的存在となり、その後の佐竹氏の隆盛の基礎を築いた。

 

[参考文献]

・『常山詠草』(徳川圀順編『水戸義公全集 中』1870、角川書店)

・大森林造『義公の和歌をたずねて』(1988、筑波書林ふるさと文庫)

・井上玄桐『玄桐筆記』(『徳川光圀関係資料・水戸義公伝記逸話集』所収、1979、常磐神社・水戸史学会他、吉川弘文館)

・鈴木暎一『徳川光圀』(2006、吉川弘文館・人物叢書)

・三木之幹他『桃源遺事』(同上)

 

 

 

6/8(土)講演会&総会 案内はイベントページへ

水戸市民会館「水戸キャンパス100」5/15・6/19の講演案内→イベントページへ

協賛企業