桜と能と光圀公~水戸桜川成立の一視点~

光圀公は全ての文芸に秀でていましたが、和歌・漢詩・歴史等とならんで熱心だったのが、能の世界です。能との関わりを無視しては桜川成立の背景を知ることはできません。和歌の話を少しお休みして、今回は能と桜についてまとめてみました。

 

(1)桜の馬場と能と

既に述べたが、光圀と桜の浅からぬ因縁は、江戸の水戸藩上屋敷小石川邸内の「桜の馬場」にはじまる。複数の伝記に、7歳の光圀が“世継ぎ”としての資質を父頼房から試される初めての場としてここが描かれている。処刑された咎人の首を持ってこい、という幼児には過酷な命令を、大方の心配をよそにやってのけた、という逸話である。小説・評伝には必ずと言っていいほど出てくる場面だが、逸話集の一つ『西山遺聞』には以下のような記述が見える。

西山公御幼年の時、威公の命にて刑人の首を提給ひしハ永野九十郎と云者の首なり。

九十郎ハ初 威公に奉仕、後出奔して能役者となり、小石川にて宴楽の時、役者之内に

混り来りしを、威公見付給ひしか、しらぬふりに被遊しを、左右の人是九十郎也と告奉

る。猶きき給はぬふりにあらセられしが、再三申上けるゆへ、是非なく執らへしめられて

手斬し給ひしとなり。刑場に至る時、はきものをよくそろへてぬきたりといへり。此九十

郎か髑髏ハ盃に作らセたまひしといへり。*1

 光圀が引きずったのは、水戸家を突然出奔し、能役者となっていた永野九十郎という者の首である。能は幕府の「式楽」であったとはいえ、能役者の地位は低く、主家を出奔し武士を捨てて能役者になった者が、主家であった水戸家の能舞台に立つなど許されることではなかった。いかなる心境で舞い戻ったのかはさておき、見てみぬふりをしていた頼房も、周囲が騒ぐのを制止できず、御手討となったのである。その御手討の「能役者」の首を、広い屋敷内の南西隅にあった「桜の馬場」から、庭園のちの後楽園の昼なお暗い樹林のなかを数百メートルも首を引きずり、東側にあった御殿まで運んだことは、幼い光圀にとって強烈な原体験の一つとなったのではないだろうか。

 この出来事があったのは、江戸藩邸に上がった翌年、公7歳の寛永11(1634)年であったとされているが、同じ年の桜花咲き始める3月7日(現在の4月4日)、公は能の初舞台を踏んでいることが「嶋屋吉兵衛家由緒書」*2に記されている。演目は不明だが、「おそらくは子方で、世子としての御披露目の一つ」だったのだろうと宮田正彦氏は述べている*3。ここで考えなければならないのは、この7歳という年にあった能にまつわる2つの出来事である。2つの出来事は同じ日であるかどうかはわからないが、能役者の首を取りに行った場所が桜の馬場、初舞台が桜が咲くころ。水戸家の世子として歩みはじめたこの7歳という年は「能」と「桜」によって彩られていることは確かである。

小説『光圀伝』ではこの首を引きずる場面の前に、光圀晩年の重要なエピソードである藤井紋太夫刺殺の一件を描写している*4。これも演能の場での事件だが、冲方丁氏はそれをにおわせながらも、公の生涯のはじめとおわりのエピソードを紡ぎ合わせるものが「能」であるということを語っていない。他の研究や小説などの類も、不思議と光圀の生涯のうち「能」が占める重要な位置を見落としている。

 

(2)光圀公と能

水戸家と能の関係であるが、意外と研究されていない*5。光圀公が少年期は3代将軍家光の全盛期。家康・秀忠と続いて能を愛好した徳川将軍家の3代家光はことのほか能を愛し江戸城で頻繁に能を上演していた。参勤交代がなく常府で、将軍の信頼篤い相談相手でもあった頼房は、江戸城内の演能の多くに参加しているだけでなく、将軍の小石川邸への御成もしばしばあり、邸内の能舞台で能が演じられるのはごく当然のことであった。水戸家は他の国持大名同様にお抱えの能楽師がおり、頼房の時代から喜多流(のち金春流)の嶋屋吉兵衛*6(代々襲名)を頭取とする複数の役者が抱えられていた。ちなみに御三家や有力大名の屋敷への御成、大名間での相互の訪問時には、必ず「式楽」としての能が演じられている。大名にとっては重要な交際のための手段でもあったのだ。『能楽史年表』をみると、光圀自身が舞ったという最初の記述は寛永18(1641)年、13歳の時に小石川邸を訪れた老中の饗応の席で「鍾馗」を舞った記録である。大名家の世継ぎとして、幼い時から教養としての謡いや舞を身につけることは当然だったのであろう。年を経て西山荘への隠居後も折々に謡ったようで、『玄桐筆記』には「鍾馗と攝待の曲舞を御すきにて、毎度被為謡。」*7とある。それだけでなく、「倡家の故実を記したる書物ども数多御所蔵被遊、且又名人の譽ある大夫どもに聞かせられて御能の事を御巧者に有けり」との記述もあり、「倡家」つまり能の家に伝わる書物を数多く所蔵して研究し、名人といわれる役者から数多くを学んでいたので、水戸家につとめる役者たちがかえって光圀から学ぶことが多かったとも記されている。ともかく玄人が恐縮するほど能の道にも精通した光圀であった。

水戸家で能が舞われたのは専ら江戸の小石川邸内の能舞台であったが、江戸前期のものと思われる後楽園を描いた絵図には、邸内の北側で屋敷と後楽園の間の部分に能舞台が設えてあったのがみえる。また、光圀はそれまで水戸城になかった能舞台を貞享3(1686)年に新設し「士人農賈」つまり庶民一般までを城に招いて能を上演したという記録がみえる*8。隠居後には西山荘に能役者が赴くこともしばしばあったという記録もあり、光圀の生涯に能が占める位置は決して軽くないことがわかるのである。

 

(3)『桜川』と「桜の馬場」

その何にでも研究熱心になる性質が能にも発揮された光圀。古記録まで持っていたということから、舞い方・謡い方・衣装・道具はもとより歴史的背景は熟知していたことは間違いないが、肝心の演目についての情報は資料に残されているものが少ない。しかし、桜の馬場から能役者の首を引くという一件は、光圀と「能」と「桜」を強く結びつけることになったと考えられる。そのことが光圀にとっての桜の存在を大きくしていった要因と考えられる。さらにそれを増幅させることになったのが、謡曲『桜川』である。

『桜川』のあらすじは、以下のとおりである。

日向国桜の馬場に住むの“九州相馬国司”平将平の遺児7歳の桜児(さくらご)が父の没

後窮乏していた家のあり様を見かねて母を助けようと、自ら人買いに身を売り、その代金

を母に届けさせる。母が気付いた時には桜児は売られて行方知れず、子を探し求めて

諸国を歩くうちに、母は狂人となって三年ものあいだ流浪する。ある時、常陸の国磯部に

たどりついた母。折しも桜の花咲くころ。桜川にながれる桜の花を網で掬おうとする狂女

がいる、という里人の噂に磯部寺の師僧と稚児になっていた桜児が見に現れる。狂女の

語るのを聞き、生き別れた母と確信し母子を再会を果たして、めでたく日向へ戻ってい

く。*9

この主人公桜児と母が住む場所が、その名も光圀にとってもゆかりの「桜の馬場」である。しかも桜児が母と生き別れたのが7歳。光圀も水戸から江戸藩邸にあがり、7歳で桜の馬場での世継ぎとしての父の試しに直面した。そして何といっても『桜川』の舞台常陸国磯部の桜川は、水戸藩領にきわめて近い場所にある。この偶然性は強く光圀の心を引き寄せるのに十分である。そしてのちの「水戸の桜川」誕生の原点と考えられる。

それでは光圀自身が『桜川』を舞ったのか。残念ながら自身が舞ったという記録は残っていない。しかし、『能楽史年表』をひも解いてみると貞享3(1686)年4月3日、江戸城二の丸で行われた御三家・前田綱紀*10を召しての猿楽八番の記録があり、御三家の当主・嗣子がそれぞれ舞っており、光圀は『海士』を演じた。この席に招かれた前田綱紀は加賀藩主であるが、母は光圀の姉にして将軍家光の養女となった大姫である。つまり、光圀にとっては前田綱紀は甥にあたる血縁者ということになる。実際綱紀とは屋敷が近いこともあり交流を重ねていた。その前田綱紀が演じたのが『桜川』であった。能に造詣の深い光圀が関心を寄せぬわけがない。そしてこの演目を演じる甥の綱紀に様々なアドバイスをしたことは十分想像ができる。ちなみに綱紀の能楽好きはその後の加賀宝生流の隆盛に多大な影響を及ぼしたことはつとに有名である。江戸前期の名君として名高い二人を結ぶ一点に『桜川』があるとするならば、実に興味深いことである。

詳細は別項で述べるが、元禄9(1696)年に光圀は水戸城下を流れる箕川に、この『桜川』の舞台常陸磯部の桜川より山桜数百本を移植し、その名を「佐久良川」と改めた。桜川磯部稲村神社の社伝では、水戸隠居後の光圀はこの桜川の地を訪れたとされている。残念ながら光圀周辺からの資料には桜川訪問の記録が見つからないが、桜川磯部稲村神社には、光圀奉納の指樽が残されている。移植前後に使者を通じての接触があったのは事実だろう。

 (4) 『桜川』成立の背景

この『桜川』は世阿弥の作といわれているが、モデルとなった桜川磯部稲村神社の社伝では、永享10(1438)年に、同神社の宮司・磯部祐行が鎌倉公方足利持氏に献呈した花見噺「桜児物語」が将軍足利義教に献じられて世阿弥の手に渡ったのがもとになっている。その「桜児物語」には日向で零落した桜児母子が零落する以前の、一族の争い・父平将平の毒殺の話などがあるということだが、謡曲にはその部分は反映されていない。ただ、この話ですぐに思い当たるのが、平将門の乱(承平天慶の乱)の常陸平氏一族の内訌である。平将門の反乱は父の遺領を伯父平国香に簒奪されたことに始まるが、その物語を髣髴とさせる物語のはじまりである。こうした物語の構成の背景には、室町時代まで続く常陸平氏の常陸国支配の強さがあるといってよい。実際に桜川の地周辺は承平天慶の乱当時は、常陸平氏の勢力下であり、将門の乱を平定した平貞盛の桜川磯部稲村神社への平定祈願の記録も残っている。さらにはこの神社一帯は、鎌倉時代には鹿島神宮の神領になっていた時期*11があり、常陸平氏系大掾氏支族の鹿島氏が、鹿島神宮総追捕使として取り仕切っていたことからも平将門の乱に関わる物語は重要だったのであろう。“日向相馬国司”平将平は実在の人物で、日向国司になった記録はないものの、将門の弟にあたり新皇を名乗ろうとする兄将門に諫言したことが伝わっている。日向国には相馬という地名はないが、よく知られているように平将門は母方の居住地であった下総国相馬郡を根拠地として“相馬小次郎”との通称があり、末裔とされる陸奥の相馬氏にもその名が引き継がれている。将門の乱、常陸平氏の物語が背景になっていることは疑う余地がない。

さて「桜児物語」が鎌倉公方持氏から将軍義教に献じられたという永享10(1438)年には、実は両者はすでに不和になっており、この年の永享の乱で、将軍の命により派遣された幕府軍によって鎌倉公方持氏は滅ぼされている。『桜川』は永享10年より以前に献じられたという説や、世阿弥没後に観世小次郎信光によって改訂されたとする説があり、はっきりとした成立年代が不明である。しかし、桜児物語の前半、将門の乱に関わる部分が削られて世阿弥が創作した『桜川』が成立している背景には、永享の乱と将門の乱という都と東国の対立の物語の附合を忌避した意図が見え隠れする。

 

(5) 「右近の馬場」「桜の馬場」そして「桜川」へ

 実は「桜の馬場」の名は日本中に残っている。熊本城をはじめ、戦国時代から江戸時代にかけて築城や城下町・武家屋敷形成に伴って一気に広がったようだ。謡曲『桜川』は世阿弥の手によるものであるから、少なくとも世阿弥が活躍した室町時代前期には「桜の馬場」の名称があったということはわかる。しかしいつから、この呼称が広がったのだろうか。いろいろ調べても確たる時期はわからないが、その手掛かりの一つは京都にあった「右近の馬場」にあると考えられる。

右近の馬場は平安遷都から間もない大同2(807)年に開かれた右近衛府の馬場で、都の区画から離れた北野の地に設置された。その名の通り右近衛府の官人たちが馬の訓練を行う場所であり、毎年5月には競馬を行う場所でもあった。『古今和歌集』には在原業平が右近の馬場で騎射を見物に来た際の歌も詠まれている。平安時代中期にはすでに桜狩りがおこなわれる花の名所になっており、馬場の周囲に桜が植えられていたものと思われる。右近衛大将に叙任されていた菅原道真もこの地を愛し何度もこの地を訪れたという。道真没後の延喜10(910)年に、この右近の馬場の桜の大樹に日輪が降臨し、現地に天照大神を祀る社殿を造営し「桜宮日降神明」「桜葉明神」「桜宮」と号したという*12。北野天満宮は天暦元(947)年の造営であるから、それより以前に北野の地に鎮座していたということになる。この後時期不詳だが、京内近衛小路に遷座し、多くの都人の崇敬を集めたらしく、後白河法皇の側近であった“信西入道”藤原通憲の子、中納言藤原成範が献呈した和歌などが残されている。

南北朝時代に至って、室町幕府2代将軍足利義詮が世継ぎの男子を失い、その後男児が得られないため、男子出生を桜宮に祈願したところ、めでたく誕生したのが3代足利義満であり、そのため足利家からの崇敬をうけたと現在の桜宮神社の社殿は伝えている。この右近の馬場の桜をめぐって描かれた能が『右近』であった。『右近』は以下のようなストーリーである。

  都に上って花の名所を見物していた鹿島神宮の神主が、北野右近の馬場にも立ち寄って

  花を眺めている。そこに何処からともなく優雅な女性が供の女達を連れて現れ、神主に言

  葉をかけ、右近の馬場の由来などを語った後、実は自分は桜葉の神であるとほのめか

  し、月夜の夜神楽を待つように言って花の陰にかくれた。神主がこの奇特を喜び有難がっ

  ていると、桜葉の神が現れ神楽を舞い、やがて羽風に吹かれながらはるか天上に消え去

  ってゆく。

この『右近』も『桜川』同様、世阿弥の作であるといわれている。世阿弥は、3代将軍足利義満の庇護のもとで、能を大成させた。それゆえ、義満の出生に関わる桜宮の本来の場所、右近の馬場にまつわる謡曲『右近』を創作していると考えられる。そしてここに見落としてはならない仕掛けがある。シテ=主役は京に桜の花見に出た鹿島神宮の神官だということである。先述したとおり桜川の舞台、桜川磯部稲村神社と鹿島神宮の神領であった時期があり、かつ鹿島神宮の戌亥の方向を護り、地震を起こす大鯰を鹿島神宮の要石と磯部稲村神社の要石が抑えているという伝承がある。『右近』と『桜川』の関係の深さは偶然なのであろうか。また、世阿弥の観世座はもともと大和猿楽四座の一つ結崎座で興福寺・春日大社を本所とし、神事に奉仕する一方、保護される関係にあった。興福寺は藤原氏の氏寺であって、隣接する藤原氏の氏神の春日大社とはほぼ一体の関係があった。その春日大社は鹿島神宮の建甕槌神を分祀したものである。つまり、この『右近』は世阿弥の庇護者たる足利義満と興福寺春日大社に十分に配慮された構成になっているということである。偶然とはいえ『桜川』『右近』ともに水戸藩のある常陸国ゆかりの物語になっている。蛇足だが光圀が13歳で右近衛中将に叙任されていることもまた興味深い偶然といえよう。

全くの私見だが、この『右近』で示されている右近の馬場は平安時代からの馬場であるが、ここが桜の名所であるが故、「馬場に桜」が浸透し「桜の馬場」が鎌倉室町期に浸透し一般化したのではないかと考えられる。そして室町幕府が能楽を式楽として以来、守護大名をはじめとして武家の間には、武家の芸能としての能が広まり、信長、秀吉、家康と天下人もこぞって能を保護した。このような環境の中で『右近』や『桜川』をつうじて「桜の馬場」は認知され、馬場には桜を植えるものという常識が生まれたのではないだろうか。そして、こうした背景から考えても、若き日より自ら能を将軍の御前でも舞い、数多の史料を読み玄人はだしの知識を持っていたという光圀。そして『大日本史』編纂に着手したが、水戸城下に桜川の地をつくったのも7歳の「桜の馬場」の記憶と遠く離れたことではない、と考えることができるのである。 

能の世界は奥が深く、推測を脱しないような内容が多く、まだ勉強中です。思考の整理程度の内容でございますが、御叱正をお願いします。

 

【註】

*1 『西山遺聞』巻上の八(水戸史学会編『水戸義公伝記逸話集』昭和53年、常磐神社)P216

*2 「嶋屋吉兵衛家由緒書」(茨城県歴史館所蔵写本『能役者記録』)

*3 宮田正彦『水戸光圀の遺猷』(平成10年、錦正社)P275

*4 冲方丁『光圀伝』(平成24年、角川書店)P8~P30

*5 これまで水戸家と能楽関係する論文あるいは書籍はいくつかあるが、本格的論考はいまだみられないが、参考文献にしめすようにいくつかの断片的な研究が散見される。

*6 前掲由緒書によると、嶋屋吉兵衛は、本姓は津田といい京都の呉服商だったものが、能楽の達者として信長・秀吉からも目をかけられ、元和年間に初代水戸藩主頼房公の要請により、在京のまま水戸藩のお抱え能役者となったとされている。3代目以降からは水戸・江戸に常住したと伝わっている。

*7 『玄桐筆記』(水戸史学会編『水戸義公伝記逸話集』昭和53年、常磐神社)P50~51

「鍾馗」は、中国南山に住むあるものが都にのぼる途上に、怪しげなものにであうが、聞けばかつて進士の試験に落第したことを恥じて宮中で自殺した者の幽霊だが、その後皇帝によって手厚く葬られたことを恩義に悪鬼を退治して国土を守るので皇帝に奏上してほしいと旅人に願い、聞き届けるとその印に旅人の前に真の姿で出てくると約束するという話。「攝待」は奥州へ作り山伏の姿で落ちのびる源義経主従が奥州の佐藤の館での山伏接待に立ち寄り、戦死した佐藤兄弟の母や遺児とやり取りをする物語で、武士の心持、武士の母の心持ちを描いたものである。

*8 『水戸紀年』(茨城県史編纂委員会編『茨城県史料・近世政治編Ⅰ』昭和45年、茨城県)P476

*9  桜川のさくら公式ホームページhttp://www.sakuragawanosakura.jp/history.html

*10 まえだつなのり。1643-1724。4代加賀藩主。3代加賀藩主前田光高と初代水戸藩主の四女大姫(のち将軍家光養女)の間に生まれる。藩政改革を断行する一方、学問を奨励し、木下順庵・室鳩巣など一流の学者を招へいした。また能を嗜み、その腕前は能楽師をしのいだといわれる。宝生流能楽の隆盛の基盤をつくった。

*11 寛元3(1245)年付の鹿島神宮所蔵文書に鹿島神領であった記録が残る。

*12 日輪はすなわち天照大御神をあらわすが、伊勢神宮内宮の摂社第2位の格式を誇る朝熊神社は、別名桜の宮とよばれており、ある時期までは桜の木自体をご神体として社殿を構えなかったとされている。北野の「桜宮日降神明」はこれを勧請したものと考える説もある。

 

【参考文献】

・鈴木正人編『能楽史年表』近世編上巻(2008,東京堂)

・橋本篤次郎「徳川光圀公と能謡」(『観世』昭和10年9月号)

・會沢蛙風繁治『水戸藩能楽の歴史と金春流』(昭和61年,私家版)

・茨城県文化団体連合会・茨城県教育委員会編『茨城の芸能史』(昭和52年,同連合会)

・宮田正彦『水戸光圀の遺猷』(平成10年、錦正社)

・桜川のさくら公式ホームページhttp://www.sakuragawanosakura.jp/history.html

・伊藤正義『謡曲入門』(講談社学術文庫、平成23年)

・梅原毅『世阿弥の恋』(角川学芸出版、平成24年)

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