またまた、横道にそれますが、水戸藩(のちの松岡領・現高萩市)出身の松村任三博士と桜についてご紹介いたします。松村博士と桜のストーリーも水戸藩と桜についての大事な物語といえましょう。
松村任三(まつむら・じんぞう)は、安政3(1856)年に、水戸藩付家老の中山家の松岡領に、中山家の重臣・松岡儀太夫の嫡子として生まれた。任三の幼少期には松岡領は水戸藩の一部だったが、慶應3(1867)年、大政奉還後、中山家は新政府に請願して「松岡藩」として水戸藩から自立することを認められた。明治3(1870)年、新政府は近代国家建設のための人材育成のため、全国諸藩からその石高に応じて優秀な人材を「貢進生」として推挙させ、東京帝国大学の前身である大学南校で洋学を学ばせたが、松村はその1期生318名の一人として英語で政治や外交を学んだ。しかし次々変わる学校の制度に不満をもち明治9年に退学。進路について悩み悶々としていたが、明治10年、東京大学初代植物学教授の矢田部良吉*1のすすめで、この年うまれた東京大学(大学南校→開成学校→東京大学と改編)の助手となり、東京大学附属小石川植物園に勤務。ちなみに小石川植物園は8代将軍吉宗の時代に開かれた旧幕府の小石川御薬園(養生所もある)がそのまま引き継がれたもの。
助手となった松村は、そのころ東京大学に来たE・S・モースの助手としても生物採取に同行、そして日本考古学史上きわめて重要な一歩である大森貝塚の発掘調査にも参加している。その後、松村は矢田部教授が日本全国で実施した200回の植物収集調査のすべてに同行、標本の作製管理はすべて松村の仕事となった。明治16年(1883)にはそうした努力と功績が認められて東京大学助教授に就任。明治18~21年にはドイツに留学。帰国後、東京帝国大学第2代植物学教授、明治31年には東京帝国大学附属小石川植物園初代園長にも就任。明治35年には日光植物園も開設した*2。また初めての日本人の手になる植物総覧『日本植物名彙』などを著し、日本植物学会の第一人者となった。大正11年に東京帝国大学教授を辞任した後は言語学・仏教研究などに没頭。昭和3年、73歳で東京の自宅で没し正三位勲一等を与えられている。
松村は生涯150種にわたる植物を発見し、それらに学名をつけた。モリアザミ、ノハラアザミ、ミネザクラ、ワサビなどだが、何といっても有名なのはソメイヨシノである。松村によってつけられたソメイヨシノの学名はPrunus yedoensis Matum.という。学名をつけた標本木は現在でも小石川植物園にあるソメイヨシノであるのだが、複数ある木のどれなのかはわかっていない。
松村の学問は植物学のなかでも植物分類学ともいわれるジャンルであり、数多くの植物に接して分類整理することに生涯をささげてきたが、『東洋學藝雑誌』に「櫻の記」と題する文章を寄稿している。
・・・桜花は美なり、桜花は国花なりなど、口にのみ唱へ、都会にのみ住居して向島や
植物園の桜を観て、よろこぶ輩は、タキギザクラ(注:ソメイヨシノのこと)を大かた
桜とするなり、小金井に歩みをはこびて、花を賞する人は、ヤマザクラを観るべし、ヒ
ガンザクラとタキギザクラとは、葉に先ちて花を発す、カンザクラも然り、ヤマザクラ
とヤヘザクラとは、葉と共に花を発す、以上は衆人が桜と称するものの大略なり、歌に
山桜かななど詠ぜしものは、小金井若くは吉野にある如き桜にて、花は紅色を帯びたる
葉と共に発生して、自ら美はしく且つ風雅なるものなり、向島や小石川のは葉なくし
て、花のみ多く、ちと賤しく、薔薇の花などを観るに異なることなし、八重の桜も美は
すなはち美なりと雖、上と略同じき感あり、大和民族の心は、唯花の嬋媚たるをよろこ
ぶにあらずして、閑雅風流にありと予は思ふなり、ここが是れ他民族の会得し能はざる
所にして、一には貴き所、二には他に異なる所なるべし、嗚呼山桜なる哉。
松村は、この寄稿の5年前の明治34(1901)年にソメイヨシノの学名をつけている。さらにその前年明治33年は藤野寄命による調査で「ソメイヨシノ」の名自体が命名された年*3でもある。それゆえまだこの頃はソメイヨシノの名は定着していなかったが、ソメイヨシノは幕末から明治初年にかけて「吉野桜」の名称で、染井の園芸農家が生産し江戸東京の人々に好まれて広がっていた。人々は吉野=ヤマザクラのイメージから、ソメイヨシノを山桜の一種として信じて疑わなかった。そんな中で近代的な植物学を拓いた松村は、おそらく初めてソメイヨシノを一般的な山桜とは異なるものだ、と初めて科学的な立場で説いた一人といえるのではないだろうか。
そしてこの「櫻の記」には松村自身の桜観が示されている。向島(隅田川*4)や小石川(植物園)に咲き乱れるソメイヨシノは「花のみ多く、ちと賤しい」西洋のバラをみるのと変わらない、八重桜も花のみ多くて賤しい部類だと。一方小金井(玉川上水沿いの桜で桜川・吉野から8代将軍吉宗が移植させた名所)や吉野の桜は「美(うる)はしく且つ風雅」と述べ、日本人の好む桜の美はソメイヨシノの「花の嬋媚(なまめかしい美しさ)」ではなくヤマザクラの「閑雅風流」にあるとしている。
実は、この文は松村がイギリス・スコットランドのアバディーン大学で名誉博士号をうけるための渡英中、桜の研究のために立ち寄ったロンドンの王立キュー植物園*5から寄稿したものである。この渡英の前年、日本は日露戦争に勝利し、日本人の多くがロシアを破って「一等国」への仲間入りを果たしたと気分を高揚させている時期であり、同盟国イギリスも日本の戦勝に刮目している時期である。日本各地には戦勝記念の公園整備や戦没者の忠魂碑が、次々と作られていた。そうした場所に植樹されることでソメイヨシノは全国に広がっていったのである。このような時代状況のなかで、ソメイヨシノに学名をつけた松村が、あえてヤマザクラについてその美を讃えていることは実に興味深い。
松村はこの「櫻の記」のなかで、中国やインドなどの「桜」の名称がつく標本や標本木を、このキューガーデンでつぶさに観察したことに説き及び、ヤマザクラが中国にも広がっていることを指摘し「我が国の人、漫にサクラといへば、櫻の支那文字を以て、之に当てはめながら、支那の国土には、無きもののやうに」思っている者が多いが標本をみれば「山桜支那に在り、美花にして香はしき桜は印度及び雲南に在り、桜を国花に凝せんとする人は少しくそを研究せよ」と冷静に論じている。ヤマザクラに対する「閑雅風流」の美は「他民族の会得し能はざる所」と述べる一方、時代状況を背負った研究者らしい態度を示している。
松村は近代植物学に道を開いた人ではありながらあまり顕彰されていない現状にある。そして松村の伝記的研究はきわめて少ない。松村に引き立てられた筈の植物学界の巨人牧野富太郎が、その著の中で松村のことを悪しざまに言い立てていることも影響して、研究者たちが先入観を持って松村を見たからである。初代園長をつとめ、開設に尽力した小石川植物園や日光植物園に肖像画一つ解説版一つないことが、現在の東京大学における松村に対する扱いを端的に示している。きわめて残念なことだ。
いずれにせよ、松村は生まれ育った時は水戸藩士の子であったので、桜を愛する水戸の気風を受け継ぎながら、桜に向かいあっていたことは当然のことだろう。光圀・斉昭両公からの連綿性を感じさせる松村のヤマザクラ好きは、ソメイヨシノの学名命名者の経歴だけをみると想像がつかないことかもしれない。
松村は前述の通り、昭和3年にこの世を去っているが、存命中から郷里高萩の赤塚墓地に墓を建てていた。墓石と共に「観照先生寿碑」が建っている。自ら「観照」と号した松村。「観照」とは「主観を交えず物事を冷静に観察し、その意味を明らかにすること」である。生涯、研究者であり続けた松村らしい号であり、その一方で寿碑を建てるところは、光圀の寿碑に倣うかのようにも思える。水戸の血を受け継いだ研究者なのである。
註
*1 矢田部良吉…やたべりょうきち、1851-1899。伊豆韮山生まれ。開成学校教師からアメリカ・コーネル大学に留学、外交を志していたが、植物学に出会い、帰国後東京大学の初代植物学教室教授に就任した。しかし、その後突如職を解かれて、松村など後進に道を譲り、高等師範学校校長に就任している。一方で井上哲次郎らとともに『新体詩抄』を発表した詩人としても有名である。
*2 松村はこの渡英より4年前の明治35(1902)年に、当時の東大総長山川健次郎の命を受ける形で日光植物園を開園させている。日本における近代的な植物学研究の進展に伴い山地植物や高山植物の研究実習の必要が出てきたからであった。松村はじめ牧野富太郎や矢田部良吉なども幾度も日光を訪れていたが拠点づくりの必要性があり、この開設に至った。この植物園開設には、かつて主従関係にあり、当時偶々日光東照宮第9代宮司として在任していた最後の松岡藩主で水戸藩附家老・中山信徴(なかやまのぶあき)と、日光に在住していた水戸出身の画家五百城文哉(いおきぶんさい)の協力があった。五百城は画壇で実績を積んでいたが突然日光に移住し植物に強い興味を持つようになり高山植物園を自宅に構えるほどになっていた。この水戸人脈が日光植物園開園に関わっていたことは大変興味深い。五百城は日本初の西洋風植物画(ボタニカルアート)の先駆者であり、水戸の桜川と祖を同じにする小金井の桜を画題にした作品がある。五百城と桜についてはいずれ稿を改めて述べたい。またこの日光植物園には30種以上のサクラ属が集められていることも、ソメイヨシノの学名以来の松村との縁からなのであろう。この経緯は寺門寿明氏が詳しく述べている(参考文献へ)。
*3 藤野寄命・・・ふじのよりなが、1848-1926。東京帝室博物館(現東京国立博物館)天産部職員の博物学者。初代帝室博物館長の田中芳男の指示により上野の桜の調査を行い、園芸品種であるこの桜を判別した。
*4 隅田川にソメイヨシノが植樹されたのは明治16年のことであり、「桜の記」が書かれ
た頃には、樹齢20年を超え樹勢が盛んで見ごたえのある景色になっていた。
*5 キュー王立植物園…松村は本文中「キュー園」と表記しているが、Roya Botanic Gardens,Kewが正式名称。1759年に宮殿併設庭園として開かれたが、現在は世界遺産に指定されている。世界史あるいは植物学史上きわめて重要な役割を果たした植物園で、イギリスの植民地政策に伴い、この植物園では資源植物となるものを集めて改良し、イギリスの植民地のプランテーションで大量栽培させることに成功させている。代表的なものに①中国の茶をインドのダージリン・スリランカへ②アマゾンの天然ゴムをマレー半島インドネシアへ③マラリアの特効薬キニーネをペルーからインドへ などの例がある。イギリスのプラントハンタ―たちがこうした活動を展開した「植物における帝国主義」の現場に立った松村は、ここで何を感じ取ったのであろうか。
【参考文献】
・松村任三「桜の記」(『東洋學藝雑誌』23巻301号、明治39年10月)
・長久保片雲『世界的植物学者松村任三の生涯』(暁印書房、1997)
・大場秀章「松村任三先生の事跡を讃える」(『ゆずりは』7号、高萩市文化協会、2001)
・寺門寿明「日光植物園と水戸藩の三人~松村任三、中山信徴と五百城文哉~」(『ゆずりは』7号、高萩市文化協会、2001)
・佐藤俊樹『桜が創った「日本」~ソメイヨシノ起源への旅~』(岩波新書、2005)
・小石川植物園公式HP http://www.bg.s.u-tokyo.ac.jp/koishikawa/
・日光植物園公式HP http://www.bg.s.u-tokyo.ac.jp/nikko/