光圀公の「木花咲耶姫」額を追って

光圀公の伝記の一つである『義公遺事』*1を読んでいて意外なことを発見しました。「源義公御書被遊候額ハ、史館ノ額ヲ彰考館ト・・・」と天保年間まで残されていた額を7つ、墓碑面を3つあげているなかで、「江府一本櫻ニ木花咲耶姫ノ額」という記載です。江戸の一本桜に、桜の化身「木花咲耶姫」の神号額を残していた・・・

 これを検証するため、東京を歩いてきたレポートです。長い文章ですが、お付き合いください。

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 まず訪れたのは、豊島区高田2丁目、都電荒川線学習院下から徒歩2分の場所にある【目白不動金乗院】。正式には真言宗豊山派の東豊山新長谷寺金乗院という。『目白不動金乗院略縁起』によると、天正年間の創建で神霊山金乗院慈眼寺と呼んでいたそうで、江戸時代砂利場(じゃりば)村のちに高田村とよばれていたこの周辺の神社3~4カ所の別当も兼ねていた。別当については少し説明が要るが、慶応4(1868)年、明治維新政府が「神仏分離令」を出すまでは、神仏混淆が何ら不自然ではなかったため、小さい神社のいくつかを地域の寺が管轄することが多く、そうした事情が背景にある。高田村には現在の学習院敷地内に「此(木)花咲耶姫社」があり、それを金乗院が別当として管掌していたのだ。確認するために近代ライブラリー所収の「東京市及接続郡部地籍地図(下巻)」の大正元年の高田村の地籍図をみると、すでに学習院の土地となっていた場所は北豊島郡高田村大字高田字稲荷(地番1173~1360、この稲荷という小字がとても重要な意味を持つので後述。)という地名が確認された*2。『高田町誌』*3にも大字高田1326番地の学習院敷地内にあった神社が、学習院建設に伴って大字高田1134番地に遷座したとの記録があり、高田村にこの「此花咲耶姫社」があったことは間違いない。現在の地図で当てはめても金乗院と学習院の上記番地のあった場所は300M程度の距離に相当する近接地である。

 金乗院は「此花咲耶姫社」の別当として、祭事も扱う他、社宝も保管していた。その社宝が徳川光圀公筆の「此(木)花咲耶姫」の神号額であり、昭和20年4月13日の戦災で本堂庫裏他の伽藍一切とともに、この額は焼失してしまった、と『目白不動金乗院略縁起』には記されている。その真偽を確かめるべく庫裏方にも訊ねたが、記録は現在略縁起のみで、額を写真に写していたなどの情報もない、とのことだった。きわめて残念なことだが、本体焼失は確定的でも、どこかに写真記録が残されているのではないかと希望を持って探索を続けたい。

 さて、神社自体の話を戻すが、実は「此花咲耶姫社」地元では江戸時代から「八兵衛稲荷」*4と呼ばれていた。「此花咲耶姫社」なのになぜ「稲荷」なのかが不思議に思うかもしれないが、要は「稲荷=宇迦之御魂神」と「此花咲耶姫」が合祀されていたということらしい。そして管理を任されていた人物が八兵衛という名前だったことに由来して「八兵衛稲荷」となったようなのだ。

 ちなみに「此(木)花咲耶姫」は富士浅間大社が祭神としており、江戸時代に人気の高かった「富士浅間信仰」とも符合する。学習院の校内図を調べると「富士見会館」という建物があり、なぜ「富士見」なのか、と調べてみると、江戸時代に現在学習院校内には「富士見坂」があったようで、芭蕉の「目にかかる 時や殊更 五月富士」という句碑もあるとのこと。台地上のこの場所には「富士見台」の名称があり、広重の「富士三十六景」の「雑司ヶ谷富士見茶屋」に描かれていることがわかった。富士の眺望がよい場所であるならば、富士浅間の小祠があることも、また理由の一つかもしれないしかし、前述の『義公遺事』の「江府一本櫻ニ木花咲耶姫ノ額」ところからみると、光圀公在世中の江戸前期の高田(砂利場)村には、桜好きの光圀公を惹きつける大きな一本桜(おそらく山桜)があり、その花にほれ込んだ光圀公が、その下にあった小祠に桜の化身である「此(木)花咲耶姫」の神号額を贈ったのではないだろうか。まずはもともとが「此(木)花咲耶姫社」があり、一般的に江戸時代中期後期に「流行神」として江戸でブームとなった「稲荷」が合祀されたのではないか。その後は稲荷ブームが強く、光圀公が愛でた「一本桜」も枯れて忘れられ、本来の意味を失い「八兵衛稲荷」と呼ばれるに至った、と考えられる。

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 ところで、神社は学習院の設置後、どこへ移動したのか。その移転先の場所を求めて、次に豊島区目白3丁目、JR目白駅の改札から2分にある【豊坂稲荷神社】を訪れた。駅からすぐの小さな路地をあがったところに「豊坂」という小さな坂がある。その中ごろに鎮座する小さな神社がその場所だった。明治41(1901)年に学習院が移転した際に、先述したように学習院敷地内の高田村大字高田字稲荷から移転してきたのだ。目白3丁目の町内会では今でもこちらの稲荷社の「浅間祭」が催行されているようだが*5、神社近隣に古くから住む古老に、木花咲耶姫神が合祀について訊ねたところ、「初めて聞いた」との答え。学習院のあたりから移転してきたことについても知らなかった。神社境内や周辺には由来書き一つすらない状況。もちろん境内には桜の木1本すらない。こちらの豊坂稲荷神社は現在は高田3丁目の高田総鎮守である高田氷川神社が兼務社として管理している。

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 桜と光圀公の事跡を求めてあるいた先にあったのは、本来、光圀公の縁によって結ばれたはずの歴史的記憶の断裂だった。残念なことだったが、地域にこのことを伝え、光圀公の足跡をしっかりと刻むことできれば、と強く願うばかりである。

*1 中村篁渓「義公遺事」(水戸史学会編『水戸義公伝記逸話集』昭和53年 所収)

*2 東京市調査会「東京市及接続郡部地籍地図(下巻)」(大正元年、国立国会図書館デ

 ジタルライブラリー所収)

*3 高田町教育会『高田町誌』(昭和8年)

*4 八兵衛稲荷の名を冠する社はもう1カ所、新宿区若松にもあり、こちらは火防の稲荷と

 して信仰されているが、両者の由来には関連性はない。

*5 目白三丁目町内会HP 

   http://toshimaku-choren.jp/129meji3.html 

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