七面山の桜~偕楽園前史~

 

ここのところ実施報告中心の投稿でしたが、久しぶりの歴史探訪をおとどけします。長文になりますが宜しければお付き合いください。(写真はもと妙雲寺境内だった見川小学校の伝光圀公お手植え桜です)

 

 

 

 

 偕楽園といえば、天下の梅の名所です。天保13(1842)年に徳川斉昭公の命で開園されましたが、それ以前は七面山と呼ばれていました。

 偕楽園に先んじる天保9年には現在の常磐神社下に七面山にちなんで「七面焼」とよばれる藩の陶窯が設けられました。水戸藩の製陶は定府制ということもあり、長らく江戸の上屋敷小石川邸の中でつくられたので後楽園にちなんだつくられた「後楽園焼」が主であり、国元にはきちんとした窯がありませんでした。5代宗翰公の時代に創始された後楽園焼は8代斉脩公と続く9代斉昭公の時代に藩主自ら製陶する時期を迎え、その技術は斉昭公の殖産興業政策とともに水戸に移植されました。のちに偕楽園の一角となる場所に製陶の場所が設けられるのは、藩邸の御庭で製陶を行った当時の形式を受け継いだものであり、偕楽園と一体と考えるべきです。(水戸家の場合、それまで江戸藩邸の中で完結していたものを水戸に移したという意味合いを考えないと断裂した理解になってしまいます)七面焼は近年発掘調査がなされて考証も進み、平成の七面焼の事業が盛んに活動されていることは、素晴らしい歴史の復元事業であり、当プロジェクトの志も同じところにありますので、大いに共感するところです。

 さて、本題の七面山です。なぜ偕楽園のある場所が七面山というのでしょうか。これも光圀公の時代にさかのぼります。

 光圀公と同年(1628)7月15日に生まれた異母妹の菊姫は、水戸家の家老格の松平康兼に明暦元(1655)年4月に嫁ぎましたが元禄元(1688)年夫に先立たれて髪をおろし、芳園尼と名乗ります。光圀公から常葉村神崎の二千坪近くの土地を与えられました。宝暦3(1706)年に他界するまで、この地に住んだ芳園尼は、熱心な法華信者でした。その背景には水戸家の女性たちと日蓮宗の濃いえにしがあります。その契機は初代頼房公の生母である家康公の側室養珠院(お万の方)がつくりました。熱心な信者であった養珠院は身延山法主日遠への幕府の弾圧に猛烈な抗議をして、ついに家康公を折れさせたり、家康公逝去後に身延山に法華経一万部読誦の大法要を催し、満願の日に、久遠寺と法華経を守護する七面大明神が祀られている七面山に上ったとされています。

 光圀公の生母である靖定夫人久昌院もまた熱心な法華信者で、その菩提を弔うために常陸太田に建てられた寺である久昌寺も日蓮宗の寺です。京都の本圀寺は光圀公が久昌院の追善供養をおこなったことで「圀」の字を賜り、それ以来水戸家と深い縁で結ばれ、幕末には水戸藩の京都における拠点となったことでしられる日蓮宗の有力寺院です。光圀公の出生養育に重要な役割を果たした三木之次夫妻や、幼少期から傍にいた老女高尾局といった光圀公に近侍した人々も法華信者であり、見川村の妙雲寺に葬られています。水戸家と日蓮宗法華信仰との濃いつながりのなかで、芳園尼も法華信者となっていたのでしょう。そしてこの妙雲寺には夫松平康兼も葬られました。芳園尼が帰依する寺となっていたわけです。

 水戸藩の出来事のまとめた『水戸紀年』のなかに、3代藩主綱條公の時代の宝永4(1707)年、正月「十三日城西七面祠創建此地ハ松平駿河守兼康(ママ)ノ室芳園尼(威公ノ女ナリ)隠棲ノ地ナリ除地二千歩妙雲寺兼帯ナリ」とあり、『見川誌』によれば「宝永四年四月 妙雲寺神先(ママ)芳園尼公別墅二千坪下サル七面明神此地に可移ノ命アリ」という記述もみられます。芳園尼逝去後は、芳園尼が帰依した見川村の妙雲寺の寺領となり、寺の堂宇本体は移動しなかったものの、寺の境内に祀られていた七面明神がここに移動し、七面明神堂が構えられたことが伝わります。七面山の名称はこの宝永4(1707)年からのこと、と考えてよいでしょう。

 さて、その七面山と桜の関係ですが、『水府地理温故録』には「此山(七面山)内に存する櫻樹は、芳園尼公此地に被為入ける折、源義君(光圀公)みよし野(吉野)之櫻樹を得させられて何地へか植させ給ひし時、芳園尼公へ御わかち被遣しをうへ置せられし也といふ。往元弐本有しが壱本は明和中かれ失せ、今は七面堂の前なるが、其一ト本といふ。」という記述がみられます。偕楽園が造成される前の七面山には、光圀公が西の桜の名所吉野から取り寄せたヤマザクラが植えられており、2本が大きく育ったが、そのうちの一本が明和年間(1764~1772 )に枯れ、『水府地理温故録』執筆当時の天明6(1786)年には七面堂前に一本が残っていたということです。また、明治18年に書かれた『常磐公園攬勝図誌』にも「貞享元禄の頃大和吉野の桜苗を七面の境内に植えられしと或書に見えり、是今好文亭東板敷の前なる櫻の大樹ならんと云へり」という記述があります。やはり、吉野の桜が植えられていて、その名残が好文亭東側の大樹ではないか、と言っています。確かに現在も好文亭東側には桜がありますが、幹の様子から見ると当時のものではないように思います。

以前も書いたことですが、妙雲寺は延宝7(1679)年に、上市桜町(現金町)から見川村の現在地に移されました。そして老女高尾の屋敷は桜町にあり立派な枝垂桜を見物に、光圀公は桜町の高尾の屋敷を度々訪れ、高尾が亡くなって妙雲寺に葬られると、その境内に枝垂桜を植樹しました。それが現在見川小学校校庭に残る枝垂桜(実際は代継ぎか)だといわれています。そして光圀公は妙雲寺移転の延宝7年、大日本史編纂の資料探索の目的で学者たちを吉野に派遣しています。そう考えると、光圀公は学者たちに命じて、吉野でヤマザクラを調達させ、その数本を芳園尼の住むのちの七面山に植えさせた、ということが想像できます。 

 『見川誌』によると「天保十四年十二月 七面明神依公命破却ス」とありますので、偕楽園開園の翌年にその堂宇は消え去り、故地名としての七面山と七面焼の名だけが往時を伝えることになったわけです。この七面明神はその後、見川の妙雲寺に祀られることになり現在に至っています。これらのことを考えると、斉昭公は七面明神を破却したものの、光圀公ゆかりの桜の景色は桜山に改めて残し、明神は本来あった場所である桜山の背後の見川の妙雲寺に移すという配慮をしたのではないか、とも考えられます。『常磐公園攬勝図誌』の挿絵をみると、偕楽園好文亭から桜山・緑岡方面の遠望としてきちんと妙雲寺が描かれており、往時は樹木の高さから考えても妙雲寺までの景観を意識していたと考えてよいと思いますし、斉昭公は偕楽園を造成した時、七面山の桜や妙雲寺にはその由来から充分配慮していたとかんがえてよいでしょう。

 梅の名所といわれる偕楽園、実は造成される以前は、光圀公がもたらした吉野の桜に縁のある場所だったのです。七面山の上には吉野の桜、見降ろす箕川(のちの桜川)には桜川の桜をそれぞれ移植したことは、光圀公の景観に対する深い配慮を感じることができます。その後、8代将軍吉宗公が玉川上水沿いの小金井に桜の名所を造る際、そして歴代将軍が隅田川の堤の植樹する際に「西の吉野」「東の桜川」から移植した文脈とまさに一致しているということに気づかされるのです。この桜川・吉野の景観と和と漢の景観の見立てということが水戸城下からの景観形成に大きな影響を及ぼしているのではないか、という点は後程、稿を改めて書きたいと思います。

 

【参考文献】

石川清秋編「水戸紀年」(1826、『茨城県史料』近世政治編Ⅰ所収、1969)

後藤興「見川誌」(1839、茨城県立歴史館蔵、写本)

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