光圀公の「緑岡の遅桜」再考

【光圀公の「緑岡の遅桜」再考】

 

2014年4月FACEBOOKに書いた緑岡の遅桜の再考です。

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題:緑岡にて櫻の咲残りたるを見て   

夏こたちみとりにましるをそ櫻所々にはるをのこして(『常山詠草』734)

4月下旬から5月初旬にかけての時期、シダレもソメイもヤマザクラも終わって、八重桜が満開を迎えています。江戸時代、江戸では園芸品種が発達し、さまざまな八重咲の桜が楽しまれましたが、質実剛健な水戸藩では品種改良の方向には向かわず、むしろ自然本来に近い姿を桜に求める傾向が強くありました。それは水戸学の思想と不可分であったように思います。光圀公も桜の中ではヤマザクラとシダレザクラを愛しました。その思いは、新緑に交じって花をつけるヤマザクラ、「遅桜」にまで及んでいました。冒頭の一首は、光圀公が「高枕亭」の名がつけられた緑岡別邸(現在の徳川ミュージアムのある場所)周囲の丘に緑に交じって咲く時期外れのヤマザクラの風情を詠んだものです。今では失われた言葉「遅桜」は、開花から散る時期までほぼ同一のソメイヨシノを見慣れた私たちにとっては、多様性のあるヤマザクラを楽しみつくす、いにしえの観桜態度を知る手がかりとなります。

 しかしこの光圀公の和歌は、単に「遅桜」を愛でたもの、という解釈のみでは理解できない深さをもっています。緑岡別邸「高枕亭」は茶を楽しむ場所でもありました。大名のたしなみとして茶道にも通じていた光圀公。「遅桜」の名に気付かぬはずがありません。足利将軍家以来の「大名物(おおめいぶつ)」といわれた最上級の茶道具・肩衝茶入の一つに「遅桜」があり、当時は徳川将軍家の持ちものだったのです。将軍家所有のもう一つの「大名物」の「初花」があり、そちらがあまりにも有名でしたが、「初花」つまりは「早桜」であり、「遅桜」と一対をなしているわけです。ともに室町幕府8代将軍足利義政公の銘名の名物ですが、「遅桜」については

 夏山のあを葉まじりのおそ桜はつはなよりもめづらしきかな(藤原盛房)

という平安末期の勅撰和歌集『金葉集』に収められたこの一首から、その名がとられたといいます。「初花」より珍品であるよ、との義政の思いがこめられています。徳川家康公は天下三肩衝「楢柴」「初花」「新田」にくわえて「遅桜」も所持していましたが、「新田」は頼房公以来水戸家の所蔵品となり、光圀公も手にし、「遅桜」は家康公の外孫松平忠明に継承され後に将軍家に戻されました。光圀公はその経緯は当然知っていたでしょう。

 冒頭の光圀公の歌は単に遅咲きのヤマザクラを詠んだ歌として鑑賞するのではなく、茶席の前後に新緑が芽吹いたなかで咲き残るヤマザクラを愛でた折の、金葉集の歌、肩衝茶入「遅桜」への思いも込めての一首と解釈するほうがよいのではないでしょうか。和歌だけでなく茶そして歴史的背景と桜への思いがつながっていることに、なかなか気が付きませんでした。現代の凡人には計り知れない光圀公の教養の深さです。

 緑岡が遅桜だとすると、その丘の手前、光圀公が陶淵明の木造をつくって安置した淵明堂があった丸山には枝垂桜が植えられており、光圀公に仕えた格さんのモデル安積覚の制定した「神崎八景」に「丸山早桜」が挙げられています。これは「緑岡遅桜」との対比ではないのでしょうか、そして斉昭公の時代に丸山の奥の岡に偕楽園開園と同時に桜山(白雲岡)が構えられヤマザクラが植樹され、緑岡に茶畑が作られたのは、光圀公を敬慕してやまない斉昭公の心を表していると考えてよいでしょう。

 なお、この茶入肩衝「遅櫻」の詳細は、水戸出身で近代を代表する茶人高橋箒庵(義雄)の『大正名器鑑』にその詳しい来歴が掲載されていて、国立国会図書館デジタルライブラリーで同名で検索し42~44コマ目で見ることができます。茶入肩衝の部門では序列1位が初花2位が水戸家所蔵の新田、遅櫻は6位とかなりの高位にランクされています。

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1014837

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蛇足ですが、遅桜を詠んだ名歌・名句を最後にご紹介します。遅桜が人々に愛されてきたことを示すものとして・・・。

  なにとなく過ぎこしかたの恋しきに心ともなふ遅桜かな(後鳥羽院)

  遅桜静かに詠められにけり(子規)

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