飯高の黄門桜から偕楽園の二季咲桜へ~水戸藩・法華信仰・桜~

 

千葉県の東総地区、匝瑳市(旧八日市場市)に飯高寺、通称を飯高壇林という日蓮宗の古刹があります。天正元(1573)年に日統によって関東ではじめての日蓮宗の学問所=壇林として開かれ、明治7(1874)年の学制の成立まで約三百年もの間存続しましたが、最盛期は六百~八百人もの僧侶がここで学んだといわれています。

家康公の側室で水戸藩初代藩主の頼房公の生母、お万の方養珠院夫人は、父方から安房勝浦城主正木氏、母方から北条氏の血を引く熱心な法華信者でした。その働きかけもあって北条氏の縁者を何人も家臣団として採用していたため、水戸徳川家には法華信者が多く、特に奥勤めの女中には法華信者となったものが少なくありませんでした。光圀公の乳母である三木夫妻や養育に関わった老女高尾は、その典型です。そして何より水戸家の奥に勤めていた頼重公・光圀公の生母お久の方・久昌院夫人もその一人でした。

養珠院夫人は日遠という僧に深い信頼を寄せていましたが、慶長13(1608)年、日蓮宗と浄土宗の宗論(教義論争)をめぐるトラブルで、家康公から日遠が処罰を命じられると、日遠と自らの分の白装束を縫って命がけで日遠を守ることをアピール。家康公は折れて日遠を赦すこととなり、養珠院夫人と日遠の絆は強まっていきました。

日遠は慶長5(1600)年から5年間、飯高檀林の化主(校長)をつとめており、その後日蓮宗総本山・身延山法主、大本山・池上本門寺貫主など日蓮宗最上位の責を担いました。この日遠を師と仰いだ養珠院夫人は、日遠が腐心した飯高檀林の整備を大いに支援していますが、特に檀林の鎮守として妙見社と七面社を寄進しているのは注目されます。妙見とは北斗七星の化身である妙見菩薩(天御中主神と一体とされる)で、七面とは身延山を守護する七面山の女神・七面大明神に対する信仰です。江戸前期以降、飯高檀林で学んだ僧たちが故郷に戻って自分の寺に妙見堂・七面堂を建てて妙見・七面信仰のブームが起こりました。養珠院夫人は、元和5(1619)年、家康公の菩提を弔うため身延山で法華経一万部読誦の大法要を行いますが、その満願の日に、女人禁制の山であった七面山に初めて登り、女人禁制を解きました。このことで、全国に女性の間に七面山の信仰が広まったと言われています。水戸の偕楽園は造成以前には七面山とよばれて、七面大明神の祠堂が置かれていました。光圀公の妹・芳園院尼の住まいとして拓かれた七面山(詳しくは後述、さらに千本桜ブログ「七面山の桜~偕楽園前史~」参照)も光圀公そして芳園院尼にとって祖母にあたる養珠院夫人の信仰がその起源ということができます。養珠院夫人は光圀公青年期の承応2(1653)年に77才で没していますが、存命中は水戸家の人々に法華信仰という点で多大な影響をあたえました。頼房公は同母兄である紀州藩主頼宣公とともに、養珠院夫人の意を受けて身延山・本門寺・飯高檀林等への寄進を度々行っていたのもその証左といえます。

光圀公は法華信仰に対する帰依を公的に表明しませんでしたが、祖母・実母・乳母など自らを取り巻く女性たちの篤い信仰心に寄り添い、他宗派に比べてもかなり手あつく保護しました。母久昌院夫人の菩提を弔うために久昌院夫人が深く帰依した水戸城下の経王寺を常陸太田に移して延宝5(1677)年、七堂伽藍を整備完成。京都から日乗を迎えて久昌寺としました。それだけでなく、天和2(1682)年に三昧堂檀林と称する学堂を作りました。

江戸時代中期に書かれた飯高檀林の『御由緒明細書』には、「元禄八亥年黄門源義公様 飯高寺へ成らせられ候て、能化ならびに上座へ檀林の法式など御問い合せこれあり候。其の上三昧堂檀林補助の義御頼み御座候。」とあります。光圀公は三昧堂檀林を隠居から三年後の元禄5(1692)年に、大きく造り直し、宗派を問わず学べる僧侶の学問所としたのです。これに際して、「檀林の法式」を学び「三昧堂檀林補助」を依頼したのです。これに応えるように飯高からは三昧堂の化主(校長)や能化(教師)などが派遣されるなど、さかんな交流がありました。

こうしたなかで元禄11年(1698)年一月、光圀公は江戸参府からの帰途、成田などを経由し、短時間でしたが飯高を訪れます。光圀公はこの時、水戸までの道筋に道案内の杭を立てることと、並木を植えることを申し付けていきましたが、翌元禄12年には「水戸黄門様御意にて下総国佐原より飯高檀林まで並木松桜植えられ」たと『御由緒明細書』には記されています。千葉県香取市佐原から飯高檀林までは約五里(20キロ)の道のりですが、光圀公の命に従って、そこに松と桜を植樹し並木としたのです。飯高檀林から数百メートルの場所には、当時の名残りとされる「黄門桜」(写真)が現存しています。また『御由緒明細書』には大角村(現香取市)にのこされた道標の写しが書かれていますが、その裏面には「依水戸黄門様御意立之 井熊権之焏」とあります。当時の水戸藩の小姓に「生熊」姓がおりますので、光圀公の命を受けて桜や松の植樹と道標整備を行ったものと思われます。

この並木の終点になるのが、佐原なのですが、その佐原には香取神宮があります。光圀公は貞享元(1684)年、国元への帰途に香取神宮を訪れていますが、この時楼門前にヤマザクラを植樹しており、これが代継ぎではありますが現在でも残っています。光圀公が飯高から佐原までの道のりに桜を植えさせたのは、先に植えた香取神宮の桜を終点とする意識があってのことかと思われます。香取神宮の桜は江戸時代後期にも美しい花を咲かせていたようで、九代藩主斉昭公が天保5(1834)年三月に香取神宮を訪れた際に「恵みある 風に知られて著し 香取の宮の 花の盛りは」と光圀公の植えた桜を眺めた感慨を歌に残しています。水戸藩の桜への思いの連綿性を物語るエピソードといえましょう。

 

さて、法華信仰・水戸藩・桜の関連性でもう一つ重要な鍵となるのが、偕楽園好文亭の近くにある「二季咲桜」の存在です。そもそも偕楽園は九代藩主斉昭公によって江戸後期天保年間に造成されましたが、それ以前は先述したように、光圀公の異母妹で熱心な法華信者だった芳園院尼の別荘で、芳園院尼の没後は芳園院尼の深く帰依した日蓮宗の妙雲寺の寺領となり、妙雲寺内にあった七面堂が移転したことで七面山と呼ばれ江戸後期まで百二十年余り、水戸の法華信者の信仰をあつめた場所でした。その七面堂は現在の好文亭のあたりにあったとされています。好文亭の傍にある「二季咲桜」は偕楽園造成前から存在したとされ『常磐公園攬勝図誌』には「旧藩士久米某の邸にありしを移されし」と書かれていて、偕楽園内にもそれを根拠とした説明板が立てられていますが、これには疑問があります。これまで書いて参りましたように法華信仰と水戸藩との関連でこれを読み解くと全く違った見方ができるからです。。

「二季咲桜」は旧暦十月にも咲くことから「十月桜」の別名がありますが、これが法華信仰には深く関わりがあります。法華信仰日蓮宗の祖日蓮は、晩年病を癒すため外護者波木井氏の一族が住む常陸国の「ひたちのゆ」(水戸市加倉井町妙徳寺一帯・桜川の上流部)を目指して移動中の弘安5(1282)年旧暦十月に、武蔵国池上郷の領主池上宗仲の屋敷(現在の池上本門寺子院・本行寺)で没します。この臨終に際して桜が時ならぬ花をつけたとの伝承があります。この時の桜を「お会式桜」と呼び、現在でも日蓮宗寺院の一部では、日蓮の命日の大法要である「お会式」には万灯とともに桜の飾り物を作って寺堂内に飾ったり、身にまとって練り歩く行事が存在しています。池上の本行寺に現在ものこる「お会式桜」は代継ぎしたものですが、京都妙蓮寺などにも「お会式桜」が存在しています。法華信者には「お会式桜」つまり「十月桜」は特別な意味があるということなのです。

水戸藩の歴史を記した『水戸紀年』によれば、芳園院尼の没後、宝永4(1707)年に、七面堂が常葉村神崎の芳園院屋敷地に移転したとあります。これにより、此の地を七面山と呼ぶようになるのですが、この時光圀公はこの世になく、この移転の指示は三代藩主綱條公によるものでした。綱條公も水戸家代々の法華信仰の重要視するとともに、綱條公の正室である季姫(公家今出川家出身・今出川家からは日蓮宗の高僧を多く輩出)も篤い法華信者であったことから、日蓮入滅地の背後に造られた日蓮宗の大本山池上本門寺に経蔵や鬼子母神堂を寄進しています。当然池上本門寺子院の本行寺「お会式桜」のことは知っていたし、そその「お会式桜」の咲く場所のすぐ隣の台地の上には紀州家墓所があり、水戸紀州両藩祖の母である養珠院の宝塔があったことも知っていました。ですから、七面堂移設の前後に「お会式桜」の種あるいは苗を取り寄せて、ゆかりある七面堂の近くに植えた、と考えるのが至当ではないでしょうか。法華信仰と水戸家とのつながりをたどると「二季咲桜」の本当の意味が浮かびあがってくるのです。

 

蛇足ですが、景観形成という点で見直してみると、日蓮の物語と桜川の関連性が意識されていたのではないか、という可能性があります。桜川上流の加倉井の地妙徳寺は、身延山から湯治療養のために目指した場所で、眼下に桜川が千波湖に合流する場所である七面山に、入滅の地・池上から「お会式桜」=「二季咲桜」を移植することで、日蓮入滅の物語を桜川を以て絡めて見せているとも想像できます。七面堂からの景観も南西に日蓮宗の妙雲寺の光圀公お手植え枝垂桜が意識されていた(『常磐公園攬勝図誌』の好文亭からの南西方面の景観には妙雲寺がしっかり描かれています)・・・そこまで考えると、もはや歴史ロマンの領域ということになるのでしょうか。

偕楽園の研究はその前史である七面山の研究がほとんどなされてきませんでした。資料的根拠に乏しかったからにほかなりませんが、実は天保14(1843)年に、偕楽園をつくった斉昭公は梵鐘供出を拒否した偕楽園の旧地七面山の所有者・妙雲寺を一旦廃寺にしているので、百二十年以上にわたる七面山の歴史を消し去る必要があったからなのではないでしょうか。水戸藩と法華信仰の流れを追うことで、かなり迂回をしましたが、偕楽園前史の一部もわかってきました。徐々に偕楽園は桜の名所だった、というに足る根拠が明らかになってきたと思います。

 

【参考文献】

藤井教正編『飯高檀林資料・御由緒明細書』(原典1803年、『現代宗教研究』11号所収)

佐知川雅一・實川理『飯高檀林物語』(2003、多田屋)

『八日市場市史』下巻(1987、同編纂委員会、)

望月真澄『江戸の法華信仰』(2015、国書刊行会)

石川清秋『水戸紀年』(『茨城県史料・近世政治編Ⅰ』(1969、茨城県史編さん委員会)

後藤興「見川誌」(原典1839、茨城県立歴史館蔵、写本)

 

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